選曲コーナー(参考情報欄)
「伊沢修二とヴァイオリン」
Mr.ビーハイブ楽師連載の「ヴァイオリン物語」の愛読者の一人より、明治7,8年頃に於ける
ヴァイオリンの状況について質問があり、次のような情報を収集しました。
(愛読者の質問)
明治7年に愛知師範学校で、はじめてヴァイオリンを見たとの歴史について、
(1)伊沢修二が校長として着任していたときでしょうか、
(2)愛知師範学校ではヴァイオリンで唱歌を指導していたのでしょうか、
(参考情報・その1)
「ヴァイオリンのホームページ執筆者」Mr。ビーハイブ楽師の収集資料の情報からの判断は
次の通りです。
「 明治4年に、イギリス人のアレキサンダー・クラークがヴァイオリンなどの輸入販売を始めて
いますので、日本国内の色んな所へ散らばってヴァイオリンが存在したことは想像されます。
文久3年(1863年)にロビオがオーストラリアからやってきて横浜で演奏会を開いたことは
紹介しましたが、聴衆の中に日本人が何人いたか分からず、いたとしても全く関心を示さ
なかった様です。
伊沢修二がその頃何処にいたのか知りませんが、アメリカに留学し、明治12年に帰朝して、
唱歌の重要性を説き、政府に頭を百万遍下げ回って、ようやく僅かな金を政府から貰い、
高等師範に居候に置いて貰ったのが日本の洋楽の始まりとされています。
然し明治7年には、宮内庁雅楽部で洋楽の研究が始まっています。」
(参考情報・の2)補足の周辺情報
1.伊沢修二(1851〜1917)について
(0)明治3年(1870)大學南校(東京大学前身)貢進生に選抜される。
(1)明治7年(1874)3月愛知師範学校長となる。(下記の4.項参照方)
(2)愛知師範学校での作曲例:「皇御国(すめらみくに)」「蝶々」など。
(3)明治8年文部省からアメリカ留学を命じられる。明治11年(明治10年?)帰国。
(4)明治12年(1879)文部省に音楽取調掛り設置、初代所長に就く。
(5)上沼八郎著「伊沢修二」(人物叢書98)
伊那市上伊那図書館所蔵「伊沢修二資料」
東京芸術大学付属図書館「音楽取り調べ掛かり時代資料」
岐阜大学付属図書館報「寸胴」第22号資料紹介NO.13
「伊沢修二の楽石自伝・教界周遊前記について」
2.愛知師範学校について
(1)愛知師範学校は、愛知県師範学校(現在の愛知教育大学の前身)とは、ちがい、
官立愛知師範学校のことで、三年間で廃校になったので、歴史は資料として
残っていないらしい。
(2)本町一丁目にあったらしいが、空襲や戦後の区画整理で、後をどめない。
(3)伊沢修二と荒野文雄(「小学校教授法」を著した教員)が協力して著した
「教授真法」(明治8年)が伊沢の授業内容を著しているようです。
3.米国人L。W。メーソン
音楽取り調べ掛教師として来日。宮内省楽師に弦楽器演奏の指導をする。
ヴァイオリン演奏の始まり。
4.愛知師範学校での伊沢修二の授業内容に言及している単行本
(萩谷由喜子著「幸田姉妹ー洋楽黎明期を支えた幸田延と安藤幸」ショパン社
2003年7月25日出版)
第一章 黎 明 明治洋楽界の先駆者伊沢修二(45頁)
「・・・・大學南校を修了すると、二十四才の若さで愛知師範学校の校長に就任する。
・・・師範学校のカリキュラムを模索する中で、・・・従来の学問だけでなく、
人間の精神形成に必要な芸術に関わる科目も是非設置すべきだと考えた。
・・・音楽実技だったが、唱歌教育・遊戯教育という風に考えていたらしい。
その一つの実践として、・・・生徒たちに歌を唄わせながら遊戯を指導させた。・・・」
すなわち、伊沢自身ヴァイオリンがあったとしても、弾けるだけの腕があるわけではなし、
あったとしても、「西洋の楽器に、ヴァイオリンあり」という程度の言及に終わっていたの
では、とも想像されます。
以上の周辺情報より、明治7年頃、名古屋市内にもあるべき所には、すでにヴァイオリンが
存在したことが考えられます。明治7年頃、官立愛知師範学校に確かにヴァイオリンがあり、
授業に用いられていたかどうかは、同校の過去の参考資料か、伊沢修二自身の授業内容を
確認するしかありません。
平成15年8月15日 ***編集責任・錦生如雪***
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