T、楽弓 「bow」
今までヴァイオリン(以下Vn)の神秘性について書いてきたが、楽弓(bow)もVnを演奏する
上で、極めて重要な役割を持っている。
一説によれば、Vn本体よりも弓の方が大切だとも云われている。ただ然し弓は一般に消耗品
あるいは付属品と考えている人が多く、購入予算の中ではどうしても弓の占める割合は極めて低い。
本項では弓はどの様にして発生したのか、そしてどの様にして進化したものかについて考えたい。
弓は文化の進んだ東洋の国々で使用されたものが最初ではないかと推定されている。即ち棒や葦の 葉や茎等に松脂を塗って、擦って音を出す事から始まったものではないかと考えられているが、 諸説あり、明らかではない。 中国の「馬頭琴」や「胡弓」あるいはギリシアのトリゴノン等々が擦弦楽器の原型ではないかと 云われている。
2.発達の歴史
楽弓が最初に出来たのは半円形のものであったと考えられる。8世紀頃にムーア人が弓の中央を
握って楽器を演奏していたと云われるが、半円形のものは如何にも使いづらいところから、
これらをもとに進化して12〜13世紀頃から、徐々に曲率を大きくして1/3円、1/4円と細くなり、
上弦の三日月の様な細い弓になって行ったものと考えられる。そして手で握る取っ手が付けられた
始めたものと云われている。
然しムーア人の間では、当時まだ半円形のものも使い続けられていたと伝えられている。
15世紀になると弓毛の調節をする為に弓の端にナットが取り付けられたと云う。
16世紀になると毛止めが付けられたと言う事が「音楽をする婦人達」と言う絵画で推測出来ると
言う事である。
17世紀になるとVnも優れたものが出来たのに呼応して楽弓も急速に変わり、ストレートなものに
変って行った。そしてヴィオッティ(1790) の頃になると、逆反りの形のスティックに変わって
行った。
楽弓の変遷の概略を下図に示す。

これによるとMersenne(1620)の時代では、スティックは真直になっているが、弓毛は先端よりも
少し中で留められている。したがって弓毛はスティックに対して少し斜めに張られている。その為
演奏はすこしやりづらい感じがする。
Castrovillar(1660)では、またスティックは先端側は少しはね上がった様な形になり、
スティックは内側に少し曲がった様になっている。この形はBassani(1680)、Corelli(1700)、
Tartini(1740)まで、ほぼよく似た形態で推移している。
ところがCramer(1770)になると、スティックは真直になり、弓毛は平行に張られている。
Viotti(1790)になると、スティックはやゝ逆反りになっている。これはViottiがトウルテに
提案して作らせたとも言われている。これによって弓毛の張力も増し、自由自在な演奏が可能に
なったものと思われる。
そういった点では、Viottiは近代のbowの発展に大いに寄与した人物と言える。
シュヴァイッツアー博士の文献では、バッハ時代の弓毛の張力は弱く、3弦 か4弦の音を同時に
弾けたと説明されているが、最近この説は誤りであり、事実はブリッジのカーブが少なかったからだと
云う。その為にバロックVnは無理をせずに3本から4本の弦を同時にならす事が可能で、しかも
無理なく美しい音がだせたのであると説明されている。
筆者注:ブリッジのカーブが少ないと運弓時に隣接弦に接触してかえって難しいのではなかろうか!
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トウルテともタートとも発音されているが、筆者はトウルテで統一したい。
Vnがアマティによって完成された後、ストラディヴァリという不世出の名人によって名器が数多く
作られたが、楽弓の場合、イタリアではなく、フランスのトウルテ一族によって、突然逆反りの
bowが出現した。そして弓のストラディヴァリと云われているフランソワーズ・トウルテと言う
名人によって、突如として完璧なものに出来上がった。
Vnがクレモナで発祥したのに対して、bowはフランスで完成し、発展を遂げた。
トウルテ一族:
トウルテ一族の初代は、通称オールド・トウルテ(生没年不詳)と言うが、コレルリ時代の旧型の
弓を近代bowに改良する基礎を作った人と言われている。
その改良点は次の通り。
(1)スティックの反りを逆反りに改めた。
(2)フェルール(Ferrule)及び真珠貝で作ったスライドライナー
(Slideliner)を考案した。
(3)コレルリタイプの旧型の弓では、様々な材質の木材が使われ、
主としてスネークウッド(Snakewood)が使われていたが、これを
ブラジル産のペルナンブコ(Pernambuco)に改めた。
(4)宝石加工の技術をフルに生かして、旧来の弓のフロッグ機能を
優れたものにした。当時のVnの名手ヨアヒム(Joachim)も彼の
弓を使ったと伝えられている。
ザビエル・トウルテ(Xavier)1740〜1780 通称レイネ
オールド・トウルテ の息子で、初代と三代目の狭間で余り良いものは
出来なかったと言われているが、初代や三代目と共に弓の改良に貢献
した筈である。しかし、結局は橋渡しの役目しか果たせなかった。
フランソワ・トウルテ(Francois・Tourte)1747〜1835
彼は三代目とは云うものゝオールド・トウルテの息子であり、レイネの
弟に当たる。
彼は弓のストラディヴァリと称されており、もしストラディヴァリが
生き返ってフランソワ・トウルテの弓で弾く音を聞いたら、その精妙な
表現力に魂を奪われたであろうと言われている。
彼は時計職人であった為に、金属加工の精密な技術が、父と兄が作り
出した近代的、機能的に優れた弓の製作技術と混じり合って、歴史上
最高の弓を作り上げたものと思われる。
彼は最初の頃は、樽の古い材料を使って弓作りを学び、様々な種類の木の中で
ブラジルのペルナンブコの木が最も適していることを発見したと云われる。
しかも彼の木材に対する眼力は鋭く、節 やキズなどの欠点のあるものは全く
使っていない。彼のスティックの特徴は先端の形状にあると云われているが、
スティックは八角形(オクタゴナル・スティック)を好んで 作った。
彼のスティックの改良点は次の通りである。
(1)弓の先端のデザインを変えた為にヘッドが重くなり、その為に
フロッグの部分も機能的にまた装飾的に優れたものとして、少し
重さを加えてバランスが取れるように改良した。
(2)弓毛が毛箱の付け根で完全にフラットになるように、金属製の
フェルール(口輪)が付けられた。
(3)弓毛の張力を調整するスクリューなどが現在と同様のものに改良された。
(4)弓毛を取り替える際に使われるスライドが付けられた等々である。
フランソワーズ・トウルテは識字力が無い人物であったが、鋭い眼力と天才的な
技術の正確さによって、生涯弓を作り続けた。トウルテの弓は生存中からすでに
高く評価され、晩年には500フラン(現在の値段にすると、数千万円とのこと)の
高価な値が付けられたと云われる。
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ペカット(Dominique Peccatte)(1810〜1874)
フランソワーズ・トウルテに次ぐ優れた名工と言われている人物である。
面白いことにVnでのストラディヴァリ対デル・ジェスと同様に、楽弓では
トウルテ対ペカットとそれぞれの分野においても同様に甲乙付けがたい
名人が屹立する現象が見られる。
ペカットは理髪師であったが、J・B ヴィヨームの工房で10年間弓作りを
学び、ルポー(Francois Lupot)の店を継いだ。後にミルクールに帰って
生涯を閉じた。
ペカットの製作技術は全く完璧なものであった。その名声の為に、彼の
名前を使ったイミテーションが無数に作られたという。非常に強い弓で、
現在でも多くのVn奏者が使っているが、筆者の知っている奏者では、
今井信子、五嶋みどりもペカットの弓を使っている。
アンリー(Henrry)1818〜1870
ミルクール出身で25才の時にパリに出て、シャノー、ペカット及びシモンと
共に仕事をし、多くの名弓を残した。
シモン(Paul Simon)
ペカット、ヴィヨーム、 アンリーと共に仕事をした名工で、美しい花模様の
フロッグの付いた芸術的な名弓を多く残した。
パジョー(Louis Simon Pajeot)
親子共に同姓同名の名前であるが、とりわけ息子のU世パジョーの後期に、
数多くの名弓が残されたと言われている。
サルトリー(Eugene・Sartory)1871〜1946
フランスのオールドボーの最後の名工と云われており、驚異的に優れた技術を
持っていたと伝えられる。父に弓の製作技術を学び、1880年にミルクールから
パリに移り、ペカットのもとで腕を磨いた。彼の技術は大変優れていたので、
多くのイミテーションが作られたと云われている。現在では人気のある名弓の
一つに数えられている。
ヴォアラン(Francois Nicolas Voirin)(1833〜1885)
ラミー(Alfred Joseph Lamy)(1850〜1919)
この両者の弓は「魔法の弓」と呼ばれる程、バランスが優れ「羽のように
軽い」と定評のあるものである。ヴォアランとラミーはヴィヨームのところ
から独立して、共同で数え切れない程の名弓を作り出したと云われている。
ヴォアランの弓はトウルテの弓とは全く違ったタイプの弓で、非常にデリ
ケートなものである。スティックの先端は極めて細く、ひ弱な感じがする
ものであるが、不思議な事に先端が細いにも拘わらず、強いスプリングを
持っており、これがヴォアランの秘技であったという。この他にもフランス
では多くの名工・名弓があるとされているが、割愛したい。
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イギリスにもジョン・ドッド(John Dodd)と言う、フランスのフランソワーズ・トウルテに
匹敵する名弓が生まれている。
それも不思議なことに、この両者共に殆ど同じような形態・性能を持っているとの事である。
当時イギリスとフランスは戦争をしており技術的交流が無いにも拘わらず、同じ様な形の弓が
出来たのはミステリーとされている様である。一説によるとヴィオッティが1792年にフランスから
ロンドンに移住しているので、ジョン・ドッドはヴィオッティの弓をコピーしたのではなかと
推定されている。
ジョン・ドッド(John・Dodd)(1752〜1839)
イギリスのbow・メーカーの元祖と云われている人物である。
元々金属加工の技術者で、本来木工は余り得意ではなかったらしい。その為か
どうかイギリスのトウルテと呼ばれながら余り記録は残っていない。
然し弓作りは極めて優れていたらしい。名人気質の人物であり、金を蓄える
事をせずに弓を作ったことで得た金は酒を飲むために使い果たしたと云われる。
彼の弓の作りは現在の様に元木を加熱して曲げる方法はとらずに、曲がった
形に木取りをしたと伝えられている。
エドワード・ドッド(Edward Dodd)(1705〜1810)
ジョン・ドッドの父親であり、無数のVnと弓を作ったと伝えられている。
一説によれば彼がイギリスの近代的な弓を作り出したのではないかとも
云われている。しかしその弓の形は独特なものであったと言われている。
ジェームス・ドッド(James Dodd)
一世と二世がおり、一世は前述のエドワード・ドッドの次男で、二世は
その息子であるが生没年は不詳である。ジェームス・ドッド二世は後述の
タップス一家と交流があったと考えられる。
トーマス・ドッド(Thomas Dodd)(1760頃〜1823)
エドワード・ドッドの三男で、優れた技術者であったが、後にVnメーカー
兼ディーラーとして活躍している。
タッブス一家
イギリスの弓作りは前述のドッド一家とタップス一家としかなかった様である。
タッブス一家は5代に亘ってbowを作ったが、正確な記録は無いと云うことである。
トーマス・タッブス(Thomas Tubbs)(1720年頃〜1800)
彼はタッブス一家の創始者と云われている。エドワード・ドッドの弟子の
一人であったらしく、ドッドの技術を受け継いだと伝えられている。
タップス一家のうち最も傑出した技術を持ち、世界的に著名なbowメーカーで
あったのはジェームス・タッブス(James Tubbs)であり、終生弓を作り続けた。
Vn、Va、それにVcの弓5000本を作り出したと云われている。
その他にタッブス一家には、
ウイリアム・タッブス(William Tubbs)(1814〜1878)
アルフレッ・ドタッブス(Alfred Tubbs)(19世紀後半〜1912)
等々がいる。
ヒル商会
ヒル商会と云えばVnのディーラーとして、過去から現在に至るまでの永年に亘る
伝統を持つが、Vn、bowのメーカーでもあった。
ヒル商会の工房で弓を作ったのはジェームス・タッブスとサミュエル・アーレン
等がいたが、ほぼフランソワ・トウルテ、ドミニク・ペカットの作品をコピー
したものであったらしい。
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ドイツに於ける近代的な弓の発祥は、やや遅く1800年頃であったと云われている。
フランスのトウルテの弓に刺激を受けて作られたものと推定されている。
ドイツでは第一次大戦以前にVnの大量生産が始まったが、これに呼応して弓の
大量生産が始まっている。然し大量生産とはいえ、熟達した技術者が作り上げて
いるので、品質的に非常にレベルの高いものであった。
ボッシュ 一家
この一家で最も有名なbowメーカーはドイツのトウルテと呼ばれた、
ルードヴィッヒ・クリスチャン・オーガスト・ボッシュ
(Ludwig Christian August Bausch)(1805〜1871)であり、非常に弓作りの
至芸を持っていたと伝えられる。
その他の名工
・ドーリング(Heinz Dolling)
・ヘルマン(Emile Hermann)
・ホイヤー(Hoyer)
・クノーフ(Christian Wilhelm Knopf)(1767〜1837)
・メーニッヒ(Johann Monig)
・フレッチュナー(Richard Pfretzschner)(1856〜1921)
・シュステル(Adolf Curt Schster)(1890〜1927)
・ヴンデルリッヒ(Friedrich Wunderlich)(1878〜?)
<目次>に戻る 日本の楽弓の歴史は鈴木Vnの発展の歴史とは切り離しては考え
られない。フランスのヴィヨームやイギリスのヒル商会が数多くの弓作りの名人を
育てた様に、鈴木Vnも少数ながら優れた弓作りの職人達を育成した。
森 信太郎; 鈴木政吉がイギリスからペルナンブコの素材を輸入して、
森信太郎に高級な弓を作らせたと伝えられている。日本の
トウルテとも云うべき名人であり、モギレフスキーも彼の
弓を愛用したと言われる。
杉藤 一族; 鈴木Vnが育てた弓の製作者の中で、最も成功したのは杉藤
一族であったと云われる。
杉藤 鍵次郎(1862〜1920);杉藤一族の初代で15年間鈴木Vnで弓の製作に
励んだ。
杉藤 文五郎(1888〜1970);杉藤一族の二代目であるが、彼は愛知県の
安八郡の農家の次男として生まれた。
1905年に鈴木Vnに入社して鍵次郎の下で仕事をすることと
なったが、鍵次郎に請われて養子となり二代目を継いだ。
鍵次郎は頑固一徹、職人気質の人物であり、自分の弟子とは
言え、絶対に教えることはしなかった、
従って弟子達はやむを得ず、彼の後ろからのぞき込み、彼の
技術を盗み取ったと言う。徒弟制度の典型の様なものである。
杉藤 武司(1923〜);
杉藤一家の三代目である。第2次世界大戦後間もなくの1946年に
弓作りを始めた。1950年代に入ると日本でも楽弓の重要性が
叫ばれるようになった。
それまでの日本の楽弓の材料は浅田材(桜系統の木材)が
多かったが、浅田材では満足出来なくなり、PH材、樹脂浸透
方式材、グラスファイバー材、等々の試行錯誤の末、結局
ブラジルのペルナンブコ材に落ち着いたと言う。
杉藤武司氏の試行錯誤のあらましは次の通りである。
(1)浅田材;桜の系統で、主として北海道産のものが使われた。
軽いがスプリングが弱いので弓の材料として
適当では無いが、1955年頃の日本製の弓の多くは
浅田材が占めていた。
(2)花梨と紫檀材;東南アジア原産の輸入品。花梨は中級品、
紫檀は中・高級品、ペルナンブコは最高級品と
いう風にランク付けをされていた。
(3)PH材; 赤樫を気取りしてホットプレスで反りを付け、
加圧して高密度な材質にするというもので、
一時期中級品として評判がよかったが、圧縮加工の
歩留まりが悪く、作られなくなった。
(4)樹脂浸透方式;木質が粗いペルナンブコ材に樹脂を浸透させ
乍ら加熱硬化させる方式であったが、これも加工費の
増大で挫折した。
(5)グラスファイバー材;ガラス繊維に樹脂を混ぜて加熱成型して
弓状にしたもので、性能も極めてよかったが、
ヘッドの接合がうまく行かず、失敗に終わった。
(6)カーボングラファイト材;カーボングラファイトもスプリングが
強く、細く出来る優れたものであったが、矢張り
ヘッドの接合がうまく行かず,商品とはならなかった。
結局ペルナンブコの良材に勝る弓の材料は見つからなかった。
この様にして見ていくと約180年前にペルナンブコを選定した
トウルテは、素晴らしい慧眼の持ち主であったものと考えられる。
杉藤 浩司(1952〜);
杉藤一族の4代目で、1975年に滋賀大を卒業後、手工弓作りの技術を
学ぶ為にドイツに留学、エルランゲンでノイドルファーに師事、
2年後に帰国し、杉藤マイスター・ボーの製作に励む。
<目次>に戻る*********** ヴァイオリン(Vn)は本当に不可思議な楽器である!*******