(1)ヴィターリ(Vitali、Giovanni Battista 1632〜1692 イタリア・ボローニャ生まれ)
ヴァイオリン(以下Vn)音楽の黎明期に於いてVn奏法や楽曲様式の確立に貢献した人物で、
多くの舞踊音楽やソナタ等を作曲した。彼の創作したソナタは後のVnソナタ形式の始祖とも云うべき
存在である。彼はボローニャでカッツァーティ(Cazzati、Maurizio1620〜1677)に学び(サン・
ペトローニョの楽長)、1667年頃同教会で活躍したが、後にモデナに移りエステ大公の副楽長として
活躍した。17世紀のイタリアVn音楽の黎明期に於ける名ヴァイオリニストの一人に数えられる。
なお彼の息子のトマソ・アントニオ・ヴィターリ(Vitali、Tommaso Antonio1663〜1745)も
Vn奏者でモデナに行き、エステ大公の楽団で活躍したが父ほど知名度は無かった。彼の作品の中で
Vnと通奏低音の為のシャコンヌは非常に有名であり、ティボーも愛奏したと云われているが、近年の
研究では彼の作品では無いとされている。
(2)コレルリ (Corelli、Arcangelo 1663〜1712 イタリア・フジニャーノ生まれ)
コレルリは少年時代からガイバラ(Gaibara、Benvenuti)ブルニョーリ(Brugnoli、Leonard)
に師事してVnを修得する一方で作曲を行って、コンチェルトグロッソの形式の確立と普及に大きな
役割を果たした。
1670年、17才の若さでフィラルモニカ(音楽芸術院の様なもの)に入会を許可された。この
フィラルモニカの入会資格は20才以上であるが、当時としては、史上最年少で入会が許可されたと
言うことになる。ちなみに20才以下で入会を許可されたのはコレルリと100年後のモーツアルトだけで
ある。
その後コレルリはローマへ出て60才の生涯を終えるまでローマで暮らし、その間彼は宮廷音楽
家として活躍するだけでなく作曲も行っている。Vn奏法についてもかなり工夫をした曲を作り、教育
にも力を注いだ。彼の教育を受けたり影響を受けた人物には、ムファット、ヴィヴァルディ、ロカ
テルリ、ガスパリーニ、ヴァレンティーニ 等らがいる。
この様に彼はVnの奏法の父と言われ尊敬されていたが、Vnの演奏は意外と苦手であったらしく、
高度なテクニックは持ち合わせていなかった様である。これは彼の作品にも如実に表れており、
曲芸的なパッセージとか、ダブルストップなどは無いばかりか、高音域でも3rdポジション以上の音
域の作品は作られていない。然しかみしめて聞くほど味わいの深いのがコレルリの曲と云われている。
また彼の作品は意外と少ないが、彼自身、自分の作品に対する姿勢は厳しく、自分の気に染まない
作品は、破棄した為と言われている。
************* 面白いエピソード2例 *************
(その1)ある時ヘンデルがコレルリとその楽団を用いて自作を演奏した時、
コレルリがうまく弾けないので、業を煮やしたヘンデルが彼のVnを
取り上げて弾いて見せたとか。
(その2)ナポリではアレッサンドロ・スカルラッティの前で二度まで失敗し、
スカルラッティに注意されたのが恥ずかしくて、ローマへ逃げ帰った
・・・と言う芳しくない噂がある。
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(3)ヴィヴァルディ(Vivaldi、Antonio 1678〜1741 イタリア・ヴェネツィア生まれ)
ヴィヴァルディはヘンデルや、バッハと殆ど同時代に活躍したイタリア生れの大作曲家である。
父はサン・マルコ寺院のVn奏者(ジョヴァンニ・バティスタ・ヴィヴァルディ)で、彼はその父から
Vnの演奏と作曲を学んだ。そして彼は1693年に僧門に入っている。
ヴィヴァルディは髪の色が赤かったので、「赤毛の司祭」と言うあだ名で呼ばれていたが、
本職の僧侶よりも、むしろ副業である音楽の方が熱心であり、父親と共に神に仕えながら一方では
女子音楽院の教師としてVnや合唱を教え、この音楽院の指揮者としても華やかな存在であったと云わ
れる。
ヴィヴァルディの残した最も大きな功績は、トレルリやコレルリの後を継いで古典的協奏曲の
形式を確立した事で、ヘンデルやバッハも彼の影響を強く受けている。
ヴィヴァルディはその生涯に約650曲に及ぶ作品を書いているが、その内の456曲は各種独奏
楽器による協奏曲で、独奏楽器の種類も多岐に亘っているが、弦楽器の協奏曲は約7割に当たる330曲
も書いている。これは自身がVn奏者である事から、当然の事である。その中で最も有名なものが
「和声と創造への試み」と題する12曲からなるVn協奏曲集で、その中の1〜4番までの4曲が
「四季」であり、最も有名な曲である。
**************** エピソード2例 ****************
(その1)現代作曲家のダルラピッコラは、ヴィヴァルディは600曲のコンチェルトを
作曲したのではなく、一つのコンチェルトを600通りに作曲したにすぎない
と言っている。確かに微視的には、それぞれの曲で様々な工夫がなされて
いるが、巨視的に見ればダルラピッコラの言は一理あるのではないかと
考えられる。但し協奏曲は456曲であり、600曲とは大げさな発言ではある。
(その2)中学生に「四季」を聞かせ、誰が作曲したものかと質問したら、イ・ムジチ
と答えたという。笑い話ではあるが、イ・ムジチがこの曲の普及にそれ程
貢献したと言う事であろう。
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(4)ジェミニアーニ(Geminiani、Francesco Saverio 1687〜1762イタリア・ルッカ生まれ)
ジェミニアーニはコレルリに師事した後、活動を始め1714年にイギリスに移り、アイルランドで
の活動を含め30数年間も暮らし続けた。そして一旦パリに移るが、再びアイルランドに移った。彼が
ロンドンで出版した「ヴァイオリン奏法」では、24の譜例があってそれぞれをどう言う風に練習すべき
かが書いてあり、それに従っていけば自然にVn奏法の基礎的な学習が出来るとある。また色々な通奏
低音付きの12曲も収録されていて、曲想表現の為の練習も出来るようになっている。
当時この様な教本は殆ど無かった為に、かなりの反響があり、フランス語やドイツ語に翻訳
されている。然し彼はその教本の中でVnで鳥の鳴き声を真似たり、音の芸術と言うよりもむしろ
手品師の格好良さを好む類の音楽家は、この本からは何物も期待してはならないと、曲芸的な技巧を
戒めている。
(5)ヴェラチーニ(Veracini、Francesco Maria 1690〜1768 イタリア・フィレンツェ生)
ヴェラチーニは早くから才能を現して演奏活動に入るが、同時に作曲家としても知られた人物
であった。然し変わり者であり、先輩のコレルリやヴィヴァルディや同時代のタルティーニに比べる
と知名度は低かった。然しVnの演奏は相当な腕前であったらしく、ヴェネツィアでタルティーニと
競演して勝ったというエピソードがある。
*************** エピソード ***************
イタリア各地から有名な音楽家が集まって演奏を披露すると言う機会が
あった時、ヴェラチーニも自作の協奏曲を演奏することになっていた。
さて彼は合唱隊の席に用意されていた楽団の第一奏者の席に行くと、
すでに奏者(ラウレンティ神父)が座っており、席を譲ろうともせず、
ヴェラチーニの顔を見るなり、何処へ行くのかね!と言われたので、
頭に来たヴェラチーニは、第一奏者の席さ、と言って末席に座って
一音たりとも弾かなかったという。その後で彼は曲目を変えてVc伴奏で
Vnソロ演奏をしたが見事な演奏で、聴衆をすっかり魅了してしまい、
拍手喝采を受けた。そこでヴェラチーニは彼の席を占拠して譲ろうとも
しなかったラウレンティ神父に向かって「Vnの第一奏者というのはこう
いう風に演奏するものさ」と言ったという。
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(6)タルティーニ(Tartini、Giuseppe 1692〜1770 イタリア・ピラノ生まれ)
ピラノで生まれたタルティーニは「パトヴァ」に出て法律を学ぶ傍ら、フェンシングの名手
として鳴らし、そしていつの間にかVnの名手になっていたという多彩な人物であった。
タルティーニと言えば「悪魔との取引」と言う有名な話がある。
『1713年のある夜の事、私は悪魔と契約を交わしたと言う夢を見た。
それはどんな事でも私の役に立ってくれる、と言うものであった。
そこで契約を交わし、悪魔がどれ位Vnを弾けるかを試してみることに
した。ところが、悪魔は並はずれた素晴らしい演奏をして見せた。
・・その音楽は私が今まで聴いたことのない、素晴らしいものであり、
圧倒されて目が覚めた。私は今悪魔から聞いたばかりの音楽を再現
しようとしたが無理であった。そこで夢に刺激されたものから私は
一つの作品を書いたが、それは自分の作品の中で最高のものであった。
そして私はこの曲に悪魔のソナタ・・悪魔のトリルと名付けた』
これはタルティーニ自身が語ったと言うことであるが、これは新しい曲想、技巧(ダブル
ストップ)、トリル等が多用されておりバロック時代の音楽とは異なるため、人々を納得させる為の
作り話であったという。全く人を食った話ではある。
タルティーニは1721年にパドヴァの礼拝堂の首席Vn奏者、1723〜25年にプラハの宮廷オーケ
ストラの指揮者などを歴任してパドヴァに帰ったが、パドヴァではVn教育専門の学校を設立しており、
子弟の教育にも力を注ぐと共に、作曲、演奏旅行を積極的にこなした。
晩年健康を損ね、作曲に専念することになるが、ロココ風のいわば装飾過剰な様式から、
次第に単純明快な様式に帰り、室内ソナタ・協奏曲を350曲を作曲した。タルティーニは一時代を
画した名手であった事に間違いは無い。
(7)ロカテルリ(Locatelli、Pietro Antonio 1695〜1764 イタリア・ベルガモ生まれ)
ベルガモで生まれ、非常に若い頃ローマでコレルリに師事した後、アムステルダムに赴き、
ここで定期演奏会を開いたり、ヨーロッパ各地を広く演奏旅行をしている。作品から分かる範囲では、
ロカテルリの技巧はコレルリよりも、またジェミニアーニをも凌ぐ様に思われる。「謎のカプリース」
と題した小品には演奏不可能に近い技巧が含まれており、すでにVn演奏の一つの限界が、ロカテルリ
によって極められたと考えられる。即ちコレルリは3rdポシション迄しか用いなかったのが、
ビーバーで7thポジション、ヴィヴァルディで9thポシション、ロカテルリでは14〜15thポシション
までのハイポシションを使った曲を書いている。
この様に極短期間にVn奏者達は天井知らずにハイポシションを競ったと言える。パガニーニは彼から 影響を受けたことは知られており、ことにOp3の「Vnの技法」・・・ラルテ・デル・ヴィオリーノと 題された12曲のソロコンチェルトのそれぞれ第1、第3楽章後半に置かれた合計24のカプリースと 題されたカデンツァ風の無伴奏独奏部分は、パガニーニの24の先駆をなしている。また彼の形式は バロックだが、内容的にはその枠をはみ出している。ダブルストップの多用で信じがたい程、高度の 技術を持っており、また調弦を変える(所謂スコルダトゥーラ)により、不思議な効果を醸し出して いる。
(8)パガニーニ(Paganini、Niccolo 1782〜1840 イタリア生まれ)
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19世紀最大のイタリアのヴァイオリン奏者 情熱的な「ヴァイオリン王」として高度な超人的演奏技術を独学で完成した。 ウィーン市から金メダル、皇帝からは名誉宮廷名手の称号を受けた。 リストやベルリオーズに影響を与えた。作曲家としては、協奏曲、奇想曲、 独奏曲など異常な性格で、多くの逸話を残した。 (詳細は、下記の物語の通り) |
パガニーニはイタリアの生んだ超人的なVn奏者で、生前からすでに伝説的な存在になっていた。
パガニーニは殆ど独学でVnを学んだと伝えられている。当時彼は既存のVn曲に飽きたらず、彼が
演奏するための曲を80曲程度書いて演奏旅行等で弾いているが、出版されたものは、その内の10数
曲を数えるに止まっている。
彼は当時、「悪魔に魂を売った男』などと言う事が、まことしやかにさゝやかれる程に、卓越した
演奏技術を持っていた。一説によると彼は大変にしなやか肩の筋肉と、並外れて強力な指関節と
「鉄の棒の様に丈夫な前腕と指」を持っていた。
彼の指は大変しなやかであり、そして長く丈夫な指のおかげで1stポシションから手をずらす
事なく3rdポシションを苦もなく演奏することが出来たという。Vnを演奏する上で理想的な体を
していたという。
またパガニーニと言うと、とかく技巧が前面に出てくる・・と言ったことが云われるが、彼は
決して技巧だけではなく、彼の演奏は彼の持つテクニックをすべてを駆使しながらも、それに新たな
生命を与え、テクニックをロマン主義の芸術的な審美性の中で大きく開花させたところに、彼の
ヴィルトゥオーゾとしての神髄があったと云われている。
兎に角パガニーニの演奏がリストを開眼させベルリオーズに大きな刺激を与え、シューマンを
して音楽家になることを決意させたと言われている。彼ほどエピソードの多いVn演奏家はいないが、
彼に対する大音楽家の評がSITEで出ていたので、芸術面でのもののみ転記したい。
シューベルト:パガニーニに天使の歌を聞いた。
クララ・ヴィーク(シューマン夫人):私はかつて如何なる声楽家でも、
パガニーニの如く人を動かすアダージオを聴いたことがない。
ヨーゼフ・ヨアヒム:今、もしパガニーニが再び現れたら、私はこのVnを永久に
戸棚の中にしまい込んでしまうだろう。
(ブラームスに言った言葉)
リスト:パガニーニは「Vnの魔術師」だ。私は「ピアノの魔術師」と呼ばれる
ようになりたい。
カール・グルー(フランクフルト・アム・マイン学長):Vnの聞き手はすべての
困難を克服している彼の優れたテクニックに魅了される。
パガニーニは際限も無く広いところに彼のファンタジーを繰り
広げ、Vnの崇高な音で、人々の魂を揺り動かす。
・・・彼がアダージオを弾くとき、その深さと力強さは言語に
絶するものがあった。彼のアダージオの演奏は、まるで傷つい
た心のため息を歌っているようであった。
(9)シュポア(Spohr、Louis 1784〜1859 ドイツ生まれ)
シュポアはドイツ、ニーダーザクセンの町ブラウンシュヴァイクに生まれる。幼い頃からVnを
手にし、1797年から同地の宮廷楽団のVn奏者モークールに、1802年からはマンハイム楽派出身の
フランツ・エックに師事し、忽ちのうちに腕を上げ、ロマン的な情感あふれる奏法を編み出したと
言う。Vn演奏のかたわら作曲も手がけ、1803年に「Vn協奏曲第一番」を出版している。
1805年から12年までゴータの首席Vn奏者、13年から15年までアン・デア・ウイーン劇場指揮者、
17〜19年までフランクフルト市立歌劇場指揮者。その間「Vn協奏曲の続編」やVnとハープの為の
ソナタ、協奏曲を作曲、またオーケストラを意にまゝに出来る特権を生かしてVn曲以外の作品も
続々発表した。
とりわけ交響曲第1番(1811年)、オラトリオ「最後の審判」(12年)、オペラ「ファウスト」
(13年)が、大きな成功を収めた。
22年カッセルの宮廷楽長、47年には音楽監督に就任した。この時期には、標題付きの交響曲、
2組の弦楽四重奏の為の複四重奏曲など、斬新なアイデアを盛り込んだ作品で人気を集めた。
歌曲にも優れたものがあり、今日でも演奏されるものがある。また彼のVn教則本は今日でも使わ
れている。
***************** エピソード *****************
シュポアはガルネリ・デル・ジェスを使っていたが、旅行中にVnを
トランク毎盗まれた。警察で調べた結果、ケースは帰ってきたが、
中身は空っぽであった。然しトウルテの弓だけは残っていた。
名器を盗まれたと言う話は時として耳にするが、この種の盗難は、
後々決して出てこないものの様である。
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筆者注:パガニーニの評の中で、彼の技巧もさることながら、アダージオの深さと
力強さで、聴衆を魅了した、とあるが、アダージオを情緒豊かに訴えかけ
られる力量と言うのは、テクニックのみでは無く、本当の意味での芸術家で
あろうと考えられる。作家で音楽評論家のG氏はかつて彼の著作の中で
「I氏(指揮者)はアダージオが出来ないからだめだ」、とこき下ろして
いた文章を読んだことがあるが、ある程度、意味のあるものと思われる。
********* ヴァイオリン(Vn)は本当に不可思議な楽器である!*******