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ヴァイオリンとヴァイオリン音楽



第三楽章 ヴァイオリニスト


(Mr。ビーハイブ楽師の話題メモ帳)

(その3)18世紀中葉から19世紀中葉

19世紀中葉から20世紀初頭にかけて活躍したヴィルトゥオーゾ達

 

 18世紀末から19世紀中葉にかけて、ヴァイオリン(以下Vn)奏法を開拓した人物としては 前項で述べたように、ヴァレンティーノ、タルティーニ、ロカテルリ等がおり、彼らによって Vn奏法については、ほぼ開拓され尽くしたが、さらにパガニーニの出現によって頂点に達する。
 然し19世紀中葉からから20世紀初頭には、それらの卓越した技法を引き継ぐと共に、さらには 聴衆に音楽を情緒豊かに訴えかけて来るようなヴィルトゥオーゾが多く輩出した。

 ここで録音技術の発明について、少し触れておきたい。
 エジソンが録音技術を発明したのは1877年である。当時は蝋管(シリンダー)録音と言って 蝋あるいは錫のシリンダーに音を刻み込んでいくと言うごく幼稚なものである上に、複製が 出来なかった。
 その欠点を補うために、1887年には複製が容易な平円盤に録音するグラモフォンが開発された。
 そして演奏家が音楽を吹き込む様になるのは、その翌年の1889年頃からで、ブラームスが 録音したと伝えられている。

 20世紀に入るとグラモフォン社、タイプライター社、パテ社、コロンビア社、ビクター社の 初期のレコード会社が競って音楽家に吹き込ませる様になった。
 本項に出てくるヨアヒムはハンガリー舞曲を、サラサーテはチゴイネルワイゼンなどを録音している。 筆者はチゴイネルワイゼンは聴いたことはあるが、ヨアヒムについては寡聞にして聴いていない。  この頃の音質はまだまだ聞きものにはならないが、当時の演奏の状況を垣間見ることが出来るので 貴重な資料と思われる。
 思い返してみると、エジソンがもう少し早く生まれていたならば、歴史上の大音楽家の演奏を 垣間見る事が出来たのにと思うと、歴史の流れとは言うものの、やや残念な気がする。

(1)ヨアヒム(Joachim、Josef 1831〜1907、ハンガリー生まれ)

 ヨアヒムは5才からVnを始め、セルヴァクチンスキーに師事。師と共に7才で公開演奏会で デビューした。
 1841年ウイーンへ移ってミスカ・ハウザー、ゲオルグ・ヘルメスベルガーT世、ヨーゼフ・ベームに ついて研鑽を重ね、1843年にはメンデルスゾーンに知遇を得て、メンデルスゾーンの伴奏で リサイタルを行う。ゲバントハウスの演奏会に次いで1844年にイギリスに演奏旅行に出て、 ロンドンのドゥルアリー・レーン劇場、フィルハーモニック協会に初出演して絶賛を浴びる。

 帰国後ライプティッヒで数年間メンデルスゾーン、ダーヴィッドに師事。1849年リストが指揮者を 務めるワイマール宮廷管弦楽団のコンサートマスター・独奏者となった。
 1863年ベルリン王立アカデミー併設音楽大学学長として赴任した。ヨアヒムは室内楽にも力を注ぎ、 1869年にヨアヒム弦楽四重奏団を結成、19世紀屈指のアンサンブルとして、高い評価を受けた。

 1877年にケンブリッジ大学から名誉博士号を授与された。
 作曲家としては、Vn協奏曲、ハンガリー協奏曲、Vnとピアノの為の小品を多数書いているが、最も 有名なのはベートーヴェン、ブラームスのVn協奏曲のカデンツァであろう。

***************** エピソード ******************
(その1)「ヨアヒム・ボウ」ということ。
     ヨアヒムは音楽院でヨアヒム・ボウイングと言うのを義務付けていた。
          彼は非常に長い腕を持っており、彼が弓先で弾く時の腕の位置は、
          通常の奏者の弾く大体真ん中あたりであったと言う。
     ヨアヒムは自分のボウイングを体格の違う人にも画一的に義務付けた。
          カール・フレッシュは彼の門下から世界的な名手を一人も出さなかった
          のは、彼のボウイングに無理があった為だと指摘している。
(その2)ブラームスへの助言。
     ブラームスはVn協奏曲を書くとき、ヨアヒムに助言を求めた。ヨアヒムは
          誠実に助言をした。然しブラームスは彼の助言を尊重しつゝも、スラーに
          関したボウイングには、必ずしも賛成はしなかったと言う。
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(2)ヴィエニアフスキー(Wieniawski、Henrik 1835〜1880 ポーランド生まれ)
ヴィエニアフスキーはポーランドに生まれたが、早くから才能を現し、8才でパリ音楽院に入学し、 マサールに師事する。1846年(11才)からポーランド、ロシア、フィンランド等々に演奏旅行に出て、 名声を高めた。
 その後再びパリ音楽院に帰り、作曲学を学ぶ(1849〜50年)。再びピアニストである弟のユセフと 共にヨーロッパ各地を演奏旅行して名声を更に高める。そして1860年にはロシアのペテルブルグ宮廷に 迎えられてVn奏者となる。

 1872年にはA・ルビンシュタインとアメリカへ演奏旅行に出かけて、空前の成功を収める。
 1874年にはヴユータンの跡を継いでブリュッセル音楽院のVn教授に就任し、フランコ・ベルギー派の 奏法を後世に伝えた。1874年頃ブリュッセル王立音楽院でイザイを教えている。

 自らも作曲を行い、Vn協奏曲やVnの為の小品を数多く残している。
 Vn奏者が作曲をした場合、往々にして技巧を強調したものが多いが、ヴィエニアフスキーの場合は 親しみ易さと、Vnの技巧のバランスが程よく保たれたものになっている。ロシアで心臓病の為に 客死しているが、享年45才という若さであった。
 ヴィエニアフスキー名前を冠した国際コンクールがあるが、彼が現在でも非常に重要な位置にある ことは明確である。

(3)アウアー(Auer、Leopold 1845〜1930、ハンガリー生まれ)
  

アウアーはハンガリー中部ベスプレームで生まれた。8才よりブタペスト音楽院でリドレーに師事、 さらに1857〜58年ウイーン音楽院でヤコプ・ドント、ヘルメスベルガーに室内楽を学んだ。
 1861〜63年、ハノーファーでヨアヒムにも師事したが、事実上独習であったという。

 ゲバントハウス管弦楽団と共演してデビューし、デュッセルドルフやハンブルグのオーケストラで コンサートマスターを務めた。また1868年にはロンドンでルビンシュタインや、ピアッティとトリオを 組み演奏をした。その後ルビンシュタインの推薦を得て、1868〜1917年ヴィエニアフスキーの跡を 継いでペテルブルグ音楽院のVn科の教授となった。

 その他帝立バレー団のソロVn奏者、ロシア音楽協会の弦楽四重奏団の第一Vn奏者、同交響楽団の 指揮者とロシア音楽界の指導的役割を担った。チャイコフスキー、グラズノフ、タネーエフから曲の 献呈を受けている。ロシア革命後アメリカに渡り、1918年に演奏会を開いた。その後アメリカを中心に 演奏活動を続ける一方、カーティス音楽院で教鞭をとった。

 彼の門下からは、エルマン、ジンバリスト、ハイフェッツ、ミルステインなどの所謂20世紀の巨匠と 言われるVn奏者の他、Mikhai Press、Oscar Shumsky、 Max Rosen、Joseph Achron、 Richard Burgin、Alexander Hilsberg等、これだけ見ても目もくらむ様な奏者達が巣立っている。

 アウアーの教育法は完璧なテクニックの発達を要求した。つまりテクニックの練習が終わって、 はじめて演奏の勉強が始まると言う事を主張している。
 また集中力を非常に求めた人で、8時間の練習よりも集中力のある2時間の方がよいと主張した。 また彼は口での説明がうまく行かない時は自分で弾いて見せて、納得のいくレッスンをしたという。


**************    エピソード  ****************
   彼のエピソードと言えば、矢張り、チャイコフスキーのVn協奏曲の献呈を受けて、
    演奏不可能と拒否をしたことが有名である。アウアーは改訂を要求したが、
    チャイコフスキーは改訂せず、この曲をブロドスキーに献呈した。
    ブロドスキーの初演はあまりうまく行かなかったが、その後彼は積極的に各地で
    演奏して、この曲をプロモートした。後にアウアーは自分の非を認め、その後は
    弟子達にも、よく弾かせていたという。彼は歴史上の名教師と言うべきであろう。
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  (4)サラサーテ(Sarasate,Pblo de 1844〜1908、スペイン生まれ)

Vnの鬼才と言えばパガニーニと言われるが、そのパガニーニの再来と言われたのがサラサーテで、 パガニーニの没後4年目にパガニーニを引き継ぐような年代にスペインのポンプローナで産声を 上げている。
 幼少より並外れた才能を発揮し、8才の時にコルニヤ劇場でデビューしている。その2年後に イサベル女王の前で御前演奏を許された。
 女王はこの少年の演奏に感激し、彼にストラディヴァリウスを与える。その2年後の12才で パリ音楽院に学びアラールに師事する。

 このアラールの音楽上の系譜を遡るとアベネック→バイヨー→ポラーニ→ナルディーニ→ タルティーニに至る、所謂トスカナ派と言う流派に属することになる。そして15才で卒業後、 演奏活動を開始した。

 彼のテクニックは正確無比、特にハイポジションでそうであったと言う。 演奏振りには無理が無く、 楽々と弾いているので、聴衆には些かさり気なく演奏している様に見えたという。また甘美な音色も 兼ね備えており、素晴らしいものであった。19世紀では最も偉大で、最も個性的なVn奏者であったと 言われ、所謂ヴィルトゥオーゾの典型であった。

 近代のVn演奏の歴史はサラサーテ無しには考えられないが、彼は生涯生徒を教えることはしなかった。 然し彼の演奏は多くのVn奏者の参考となり、刺激を与えた。

 当時の作曲家は競って彼の為にVn曲を書いたが、その主なものはブルッフのVn協奏曲第2番、 スコットランド幻想曲、サンサーンスのVn協奏曲 第1番、第3番、序奏とロンドカプリチョーソ、 ラロのスペイン交響曲、ヴィエニアウスキーのVn協奏曲第2番などであるが、彼自身も作曲をしており、 有名なチゴイネルワイゼン、カルメン幻想曲、スペイン舞曲集等の名曲を残している。
 これらは現代でもVnの名曲としてしばしば演奏されている。


***************  エピソード ******************
(その1)彼はパガニーニの再来とうたわれていたが、パガニーニの曲は稀にしか演奏
          しなかった。特に彼の名声の高まっていた時代には演奏しなかった。本質的
          にはパガニーニの曲は余り好きでなかったらしい。
(その2)「君は演奏家とオーケストラの指揮者の間に大きな違いがある事を考えて
          みた事があるかね?例えば私はVnで私の音楽を作るけれど、指揮者は小さな
          棒を持っているだけさ。君はピアノを弾いているよね。それで音楽を創るよ
          ね。だけど指揮者は小さな棒を持っているだけさ。歌い手は声があり、それ
          で音楽を創るよね。もしあなたが指揮者からその小さな棒を取り上げたとし
          たら、後に何が残る?何ものこらないさ。」
     これはピアニストのハロルド・バウアーが1948年に出版した自伝の中に書か
          れているものである。
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(5)フバイ(Hubay、Jeno 1858〜1937 ブタペスト生まれ)

フバイはハンガリーのVn奏者であった父親から(カール・フバイ)手ほどきを受けるが、幼少より 才能を発揮、11才で演奏会にデビューした。13才でベルリンの高等音楽学校に入学、18才まで ヨアヒムに師事した。リストの推薦により、1878年にパリでデビューし、成功を収めた。
 この時ヴユータンに認められ、師事すると共に、師の遺作となったVn協奏曲第7を補筆完成させた。

 1881年にアルジェで演奏会を開催。1882年にブリュッセル音楽院のVn教授に就任するが,1886年には ブダペスト音楽アカデミーのVn教授となり、その後、同ブダペスト・アカデミー音楽院の校長として、 後進の指導に当たる。

 門下より、シゲティ、ヴァルガ、ヴェチェイ、マルツィ、テルマニー、レナー、オーマンディ (初めはVn奏者)、エレナ・ルビンシュタイン、ジェルトレル、セイケイ、アイターイ、 ガイヤー=シュルティース、フランシス・ダラニー、エルダリング(ブッシュの師)等の優れた Vn奏者をずらりと輩出している。

 また室内楽にも力を注ぎ、フバイ弦楽四重奏団を結成して、室内楽奏者としても活躍している。
 作曲家としては4つのVn協奏曲、Vn小品や、オペラ「クレモナのVn作り」「アンナカレーニナ」等の 他にバレー曲、4つの交響曲、室内楽曲を残しているほか、バッハ、クロイッツァー、パガニーニの 楽譜の校訂にも携わった。
 1907年それらの功績により、ナイトに叙せられる。そして1913年にはクラウゼンブルグ大学より 名誉博士号を授与されている。

(6)イザイ(Ysaye, Eugene 1858〜1931、ベルギー生まれ)

  ベルギーのVn奏者であり指揮者であった父に4才の時から指導を受けた。
 その後7才でリエージュ音楽院に入り、1865〜1869年にはヘインベルクに、14才から(1872〜74年) ロベール・マサールに師事した。
 さらにブリュッセル王立音楽院でヴィエニアウスキーに、そして1872〜74年にはパリでヴユータンの 指導をも受けた。

 この若い時点で、すでにイザイは非常に個性的な型を持った芸術家になっていた。1879〜81年には、 ベルリンのビルゼ管弦楽団のコンサートマスターとなり、ヨアヒムの賞賛を受ける。
 その後独奏者としてヨーロッパ各地で活躍したが、この時期に、フォーレ、サンサーンス、 ドビュッシー、フランクらとの親交を持ち、その作品を紹介した。その為かフランクはVnソナタを、 ドビュッシーは弦楽四重奏曲をイザイに献呈している。

 1886〜1898年にはブリュッセル王立音楽院のVn教授を務めた。彼はまた室内楽にも重点を置き、 マチュー、クリックボーム 、レオン・ファン・ホート、ヨゼフ・ヤコブらと共にイザイ弦楽四重奏団 を結成。1894年に自身で組織した管弦楽団の指揮活動も行った。

 彼のヴィルトゥオーゾとしての名声は高く、イザイの技術的能力は、ヨアヒムを凌駕していたと 言われている。たゞイザイの創出した音楽はアクロバ ティックな技巧のみではなく、音楽の創りに 情緒、ヴィブラートやアゴーギク等を重視した、いわばロマン派的なものであった。

 唯一彼の欠点は弓の持ち方にあり、小指を弓に当てず、薬指、中指、人差し指の3本の指で 保持した事であった、と言われている。小指を外すことは先弓で演奏する際、力が半減してしまう。 それでも若い力のある時は体力でカバー出来るが、加齢と共に支えきれなくなり、非常な損失として 弓のふるえがでてくる。彼はすでに47才でこの弓のふるえに悩まされることになる。
 この点は、弓の保持を重視したアウアー門下と対照的である。

 作曲は独学であったが、2つのオペラ、6曲のVn協奏曲等を始め交響詩、無伴奏Vnソナタなど 多数の作品を残している。

**************   エピソード  ***************
(その1)イザイの言葉。 
   Vn技法の本質を極めた偉大なVn奏者は次の3つのグループに分ける事が出来る。
     グループ1;コレルリ、ヴィオッティ、ヴユータン、に代表されるロマン派
                  表現グループ。
     グループ2;メカニックを完璧にしたロカテルリ、タルティーニ、パガニーニ
                  らのグループ。
     グループ3;叙情派とも言うべきものに、イザイ、ティボー、エルマン、それ
                  にシカゴのザメティーニらがいる。
   その他にもそれぞれのグループの発展に寄与した人物はいるが、これらのグルー
      プが真の「Vn技法」を完成したと言ってよいと言っている。面白いのは自分
      自身の名前を挙げていることであるが、叙情派を自認する辺りにイザイの音楽
      が伺われるというものである。 

(その2)イザイの「ストラディヴァリウス」
   1947年頃、あるVn奏者に借金の返済に困っているので、「私のVnを買ってくれ
      ないか」と話を持ち込まれた。Vn奏者はこのVnが非常に気に入ったので、3日
      後に4000ライヒスマルクで買った。然し唯一つ弦の支えが僅かに少しずれてい
   ることが気になっていた。
   そこで有名なVn作りのシュトローブルのところへ持って行って修理を頼んだ。
   ところがシュトローベルは、しばらくVnを見てから客の方へ探る様に視線を
   向け、「あなたはどういうVnを持って来られたのかご存じですか」、と尋ねた。
   Vn奏者は手短にこのVn購入の経緯を話した。するとシュトローベルは一枚の
   写真を見せた。それはこのVnの元の持ち主がこのVnを持って立っているもので
   あった。イザイはこのVnをペテルブルグの劇場で拍手喝采を受けている間に
   盗まれたものであった。1732製の「ストラディヴァリウス」で有名な「ヘラ
   クレス」であった。40年間行方不明になっていたものであった。
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  (写真の引用資料:渡辺和彦「ヴァイオリニスト33」河出書房(2002年初版))

******** ヴァイオリン(Vn)は本当に不可思議な楽器である! ******

平成14年8月16日  ***編集責任・錦生如雪***


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