ヴァイオリンとヴァイオリン音楽



(その6)20世紀初頭から中葉期


(Mr。ビーハイブ楽師の話題メモ帳)

20世紀初頭から中葉にかけて活躍したヴィルトゥオーゾ達

 
<目   次>
<エルマン><シゲティ><ハイフェッツ>

 ヴァイオリン(以下、Vn)の前身であるフィドルが宮廷の音楽に取り入れられてから、Vnと しての進路は大きく変わった事は既に述べたが、その黎明期からVnの基本奏法の確立に模索した時期、 17世紀から18世紀初頭にかけては、様々なヴィルトゥオーゾ 達がVnの奏法をさらに進化させたが、 パガニーニの出現によって頂点に達する。

 それらの優れた奏法は次世代に着実に引き継がれ、19世紀から20世紀初頭にはそれらの ヴィルトゥオーゾを技法の上でも、音楽性の上でもそれらを凌ぐ歴史に残るヴィルトゥオーゾが 数多く出現した。
 今まで、Vn音楽の出現から20世紀初頭までに活躍した人物の紹介をしてきた。
 今回は19世紀末から20世紀初頭に生を受け、20世紀中葉前後まで活躍した、これまた錚々たる ヴィルトゥオーゾ達を紹介したい。最近モンサンジョンの企画により19世紀末から20世紀中葉までに 活躍したVn奏者の演奏風景を編集したDVDが発売された。これはヴィルトゥオーゾ達が演奏する 音声のみならず動画で記録した貴重な資料である。この中でエルマンは次のように発言している。

 私たちは、今の若い人達より優れているとは思わないが、今後我々より優れたVn奏者が出現したら、 それは我々がいたお陰でしょう。・・・と。

 これは前述したようにVn音楽の出現以来、それぞれの時代のヴィルトゥオーゾ達が営々と積み 重ねてきた為に現在があり、これからの若い人達も努力を重ね、次世代へ伝えるべきであるという 示唆を与えてくれたものと思われる。 唯この時期には残念ながら録音技術は低く、現在のものとは 比較にならないが、然しその中から彼らの演奏を垣間見ることが出来ると思われる。

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(1)エルマン、ミッシャ。(Elman、Mischa。) 
エルマン
(1891〜1967) ロシア生まれ

 ミッシャ・エルマンはロシアのタルエノに生まれる。オデッサでフリードマンにVnを学んでいたが、 ある日アウアーがこの学校を訪れた際にエルマンの才能に惚れ込み、ペテルブルグ音楽院への入学を 勧めた。彼は名教師と謳われたアウアーの秀才で、ハイフェッツ、ジンバリスト、ミルステインと 共に神童と謳われた。
 1904年(13才)の時ベルリンでデビュー 、翌年イギリスでデビューを果たして、ヨーロッパの 楽壇に旋風を巻き起こす。
 第一次大戦中アメリカに定住し、市民権を得た後アメリカに永住して活躍するが、1967年 ニューヨークで没した。
 エルマンと言えばエルマントーンと言われて、一世を風靡した甘美な音色が特徴であり、我々にも 語り継がれてきた。

 彼の黄金期は第一次大戦の10年後くらいまでで、次第に下り坂に入り、第二次大戦後はソロ活動は 非常に少なかった。

 彼はある意味では不運なVn奏者でもあったと言うべきか、その頃のVn奏者がいずれも辛酸を嘗める 事になる「ハイフェッツの出現」である。

 彼はエルマンより10才年下であるが、不世出の大ヴィルトゥオーゾ である。エルマンは、 アウアーの弟子の許でも常にハイフェッツの陰に隠れていた。
 最近発売されたモンサンジョン企画のアート・オブ・ヴァイオリンの中でパールマンは次のように 語っている。「ハイフェッツの出現」によって。当時のVn奏者達は殆ど例外なくハイフェッツ病に 罹ってしまった・・と。
 然し一時代を築き上げたこの名Vn奏者を忘れることは出来ない。その卓越した技術と豊かな音色は アウアー流の特徴を最もよく表していたし、特に小品の演奏では、クライスラー、ティボーと並び 最高の評価を得ていた。

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 エルマンの音色は所謂「エルマントーン」と言われ、その甘美な美しさが喧伝されて
いたが、その音が聞かれたのは1930年代辺りのようであり、戦後来日した時には以前
からのエルマンファンを失望させたようである。
 尤も「エルマントーン」と言うのは外国の書物の中では余り触れられていない様で、
特に日本のジャーナリズムが些か誇張して表現したものとも言われている。
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(2)シゲティ、ヨゼフ(Szigeti、Joseph)
シゲティ
(1892〜1973) ハンガリー生まれ

 シゲティはブダペストで生まれている。ブダペスト音楽院でフバイに師事。そしてヨアヒムや ブゾーニらからも音楽上の重要な助言を受けている。
 1905年(13才)の時にブダペストでデビュー。1906年にはベルリンで小さなサロンコンサートを 二、三回行っている。その後シゲティは、サーカスの合間にメンデルスゾーンのVn協奏曲を弾くと 言う奇妙な体験をしている。

 暫くの間、サーカスの仕事をした後、翌年にはロンドンに渡りデビューを果たし、神童として 注目される様になる。1913〜1914年にかけてはヨーロッパ各地を楽旅して第一級のVn奏者として 認められる様になる。
 この頃からシゲティは現代作曲家の作品を積極的に取り上げ、19世紀的なヴィルトゥオーゾとは 違った新しいタイプの演奏家であることを実証した。
 従ってシゲティの生涯に於けるレパートリーは極めて広く、現代音楽に至っては、 イヴリー・ギトリスを除いて最も多く演奏をしたと言われている。

 1917〜1925年の間、ジュネーヴ音楽院のVn科の教授に就任し、マスタークラスの指導をしている。
その間にプロコフィエフからVn協奏曲第一番の献呈を受け、プラハで初演した。そして、この曲の 価値を国際的に広める役割を果たした。

 1925年にはストコフスキーから招かれてアメリカでデビュー し、フィラデルフィア管弦楽団と ベートーヴェンのVn協奏曲を弾き、続いてニューヨークでも絶賛を浴びている。
 以後2年間世界各地を楽旅し、1931年と1932年に来日して演奏会を開いている。

 1926頃よりファッシズムの吹き荒れるヨーロッパを離れてアメリカに移住し、1951年にはアメリカの 市民権を得ている。そして同じくヨーロッパから逃れてきた親友ベラ・バルトークと共に演奏し、 バルトークのラプソディ(管弦楽版)はシゲティによって初演されている。
 筆者はバルトーク(Pf)シゲティ(Vn)のベートーヴェンのクロイツェルソナタのレコードを もっているが、その即物的な演奏は未だに心を打つものがある。

 彼の演奏に対する評価は大きく2つに分かれている。彼の賞賛者は、アクロバット的なVnの魅力や、 サロン向けの甘い情緒の演奏を排し、即物的(ザッハリヒカイト)な演奏に徹し、作曲者の意図に 迫る音楽を追究したことにある。これは当時の風潮でもあったのであるが、シゲティは作曲者の 意図をよく見つめ、吟味した上で音楽を創り上げると言う姿勢を貫いておりその意味では非常に 硬質なヴィルトゥオーゾであったと言える。

 もう一つの評価はシゲティの音は貧しい、音がかすれたり、フレージングがギクシャクしたり、 世界的なヴィルトゥオーゾの中でシゲティほど下手な人はいないと言うのがそれである。
 筆者は確かに晩年のシゲティの音はクライスラー、エルマン、ハイフェッツに比べ、そして現代の パールマンに比べると、音は硬質であるが、彼の演奏の一音一音に、そしてフレーズ毎に確かな思い 入れが感じられ、作曲者の意図をよく汲み取り乍ら演奏している様に思えるのだが、如何!

 シゲティは1953年に3度目の来日をするが、その後、スイスで教職に励んだ。
 その生徒の中に海野義雄、潮田益子、前橋汀子らがいる。

***************  エピソード  **************
 シゲティは毎日二時間の練習で充分であり、頭での練習をやらなければならない
と言う。音符の背後にあるものを求めて、それを表面に引き出してくる事で作曲者の
意図を語ることが出来る。(クライスラーと同じ様な考え方)
 また記憶の助けも非常に大切で、暗譜をして練習する事によって、作品の鼓動
或いはテンポ、その色合いをクライマックスへと盛り上げて行く演奏を考察する事が
出来る。
 「結局はまず楽譜をよく吟味して、作曲者はどういう事を語ろうとしているのか
  を把握して練習すべきと言う事であろうか」
 ハイフェッツの演奏については多くを語っていないが、最近は音楽を哲学的に
解釈する人が少なくなってきた、と言っている。
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(3)ハイフェッツ、ヤッシャ。
(Heifetz、Jascha)
ハイフェッツ
(1901〜1987)ロシア生まれ

 ハイフェッツは 1901年バルト海に面する古都ヴィルナで生まれた。
 Vn奏者であった父から手ほどきを受け、5才でヴィルナ帝室音楽学校に入学を許され、 エリス・マルキンに師事。7才の時にメンデルスゾーンのVn協奏曲を演奏して早くも神童の評判を 得た。
 翌年ヴィルナを訪れたレオポルド・アウアーに才能を認められて、1910年(9才の時) ペテルブルグ音楽院に入学。アウアーに師事した。12才から本格的な演奏活動を開始したが、 1914年にアルトゥール・ニキッシュの率いるベルリンフィルとゲバントハウス管弦楽団と共演して ニキッシュを驚嘆させた。

 当時裕福な音楽家であったクーセヴィツキー(有能な音楽家を数多く援助した)は、自分の 交響楽団を組織していたが、彼のオーケストラに登場する独奏者の人選は極めて厳しかった。  然しハイフェッツはクーセヴィツキーにも認められ、クーセヴィツキーの交響楽団の最年少 ソリストとして迎えられた。

 また1917年、16才の時にシベリア・神戸を経由してアメリカに渡り、1917年12月にカーネギー ホールでデビュー〈現代の奇蹟〉と称えられる程の大成功を収めた。

 この頃ロシアでは、所謂ロシア革命が起こり、社会主義国家に移行した為にハイフェッツは 帰国を断念してアメリカに留まり、演奏活動をすることを余儀なくされたが、1925年にはアメリカの 市民権を得てアメリカに永住する事となる。

 ハイフェッツはヴィクター社と契約してレコードの録音を重ねて、ハイフェッツの名声は鰻登りに 上昇し、早くも世界のVn界の王座の一角を占める事となった。
 ハイフェッツの神懸かり的なテクニックは他の追随を許さなかった。
 19世紀末から20世紀初頭にかけてのクラシック音楽の解釈は、奏者の個性を前面に出すことが 重んじられたが、ハイフェッツは一切の妥協を排除して、且つ冷静な解釈を行った。ハイフェッツの 運弓は速く、力強いヴィブラート、正確無比な指使いから醸し出される音色・音楽は非常に特徴的で あり、神業的なものであった。その為その時期にいたVn奏者達は非常に苦労して、例外なく、 ハイフェッツ病・・・に罹かったと「アート・オブ・ヴァイオリン」の中でパールマンは言っている。

 然し乍ら出る杭は打たれるの例えの通り、ハイフェッツの超絶的な演奏は無機的であり、技巧のみ である、とハイフェッツの演奏を批判する人が出てきたことも事実である。
 日本でも、そう言った評価をする人があり、ハイフェッツは最近、いや現在でも正当な評価は されていなかった面がある。然し最近ハイフェッツの膨大な全集や未発売の録音のCDが発売されるに 至り、それらをよく吟味して聴いた人達により、ハイフェッツは再評価され、現在では正当な評価が なされる様になって来た。

 話は前後するがハイフェッツのアメリカ時代には、1938年に同じくアメリカに亡命して来たVcの 名手フォイアマンとルビンシュタインと組んで、室内楽の分野でも活動しており、彼らのトリオは、 「百万ドルのトリオ」と異名をとったことで有名である。
 名手フォイアマンの死後、これまたVcの名手であったピアテゴルスキーを入れて、活動を持続して いる。
 日本には1923年と1931年の二回来日しているが、筆者の師匠は恐らく2回目の来日の時に ハイフェッツの演奏を聴いておられ、レッスンの後で、色々と感想を伺った事がある。

 その時Vn製作の項でも述べたが、彼のストラディヴァリウスが日本の湿度の高い気候の為に 表板の膠が剥がれてしまい、途方に暮れていたが、峰沢氏の夜を徹しての努力により、事なきを得た。
 その際ハイフェッツは片時もVnのそばを離れることは無かったと言う。
 彼は日本にもこれだけ素晴らしい技術者がいたんだと賞賛し、自分の肖像写真にサインを添えて 感謝の意を表したと言うことである。

*****************  エピソード  ***************
  ハイフェッツは戦後間もなく、「彼らに音楽を」と「カーネギーホール」と言う
映画に出演しており、彼の演奏だけではなく、映像を見ることが出来た。
 うろ覚えではあるが、どちらかの映画のテーマ曲はサンサーンスの「序奏とロンド
カプリチオーソ」だったと記憶しているが、音楽に余り関心を示さなかった人達まで、
ぐいぐいと彼の演奏に引き込まれて行ったと言う記憶がある。
 「素晴らしい演奏であった」
 また1971年彼の生誕70年を記念して、アメリカで一時間のテレビ記念番組が放映された
ことがある。
 当然日本でも録画が放送された。筆者も見ることが出来たが、そこには演奏の他に
彼が卓球を楽しんでいる場面や、私生活の場面があったが、穏やかな面影であり、
とてもあれほど鋭い演奏をする人物とは思えない様子であったと記憶している。
 何れにしても、筆者はハイフェッツを20世紀最高のVn奏者であると確信している。
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     *********** ヴァイオリン(Vn)は本当に不可思議な楽器である!*******

平成14年10月5日  ***編集責任・錦生如雪***


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