ヴァイオリンとヴァイオリン音楽



第三楽章 ヴァイオリニスト


(Mr。ビーハイブ楽師の話題メモ帳)

(その7)20世紀初頭から中葉期

20世紀初頭から中葉にかけて活躍したヴィルトゥオーゾ達

 
<目   次>
<フランチェスカッティ><ミルスタイン><カンポーリ>
<オイストラフ><ゴールドベルク><メニューイン>
<リッチ><シェーリング><ヌヴー>

(4)フランチェスカッティ、ジーノ(Francescatti、Jino )
フランチェスカッティ
(1902〜1991年)フランス生まれ

 フランスはマルセーユに生まれる。父はパガニーニの唯一の弟子であったと言われるシヴォオリに 師事したヴァイオリン(以下、Vn)奏者であったが、フランチェスカッティはその父から手ほどきを受け、5才くらいの 時から才能を現した。
 彼は母もVn奏者であった為に、Vnをおもちゃにすると言う雰囲気で育ったが、10才の時には人前で ベートーヴェンのVn協奏曲をオーケストラと共演した。

 その後彼はティボーに師事。1925年(23才)の時にパリ音楽院管弦楽団の独奏者として、パリで デビューした。ティボーはその時、フランチェスカッティは世間ではまだ余り知られていないが、 何時の日にかすべての人の中でも、最も有名な存在になるであろうと言ったという。
 その後ラヴェルと一緒に演奏旅行を行うなど、次第にヴィルトゥオーゾとしての活動を華々しく 展開した。

 1939年にニューヨーク・フィルハーモニーとパガニーニのVn協奏曲を弾いてアメリカにデビュー したが、既に彼はヨーロッパ最高のVn奏者の一人と言われるまでになった。
 彼はアメリカではハイフェッツやスターンを凌ぐヴィルトゥオーゾと言われた。確かに素晴らしい テクニックを持っているが、果たしてハイフェッツを凌ぐかどうかについては、疑問符を投げ かけずにはいられない。
 また彼は色んな曲を彼のテクニックに合わせたように校訂版を多く出しているが、名人芸を 披露するような演奏法であり、一部を残して、今では余り使われていない。

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(5)ミルスタイン、ナタンノ(Milstein Nathan)
ミルスタイン
(1904〜1992) ロシア生まれ

南ロシアのオデッサに生まれた。7才の時からストリアルスキーに師事、そしてストリアルスキーの 推薦でペテルブルグ音楽院に入学して、アウアーに師事するが、アウアーは1917年にロシアを離れて、 アメリカに渡っているのでミルスタインは13才くらいまでしかアウアーには教わっていない。
1920年、16才の時にオデッサでデビュー、同年グラズノフの協奏曲を作曲者の指揮で独奏した。
 19才頃からロシア国内で演奏活動を行い、ホロヴィッツとも共演した。

 1925年21才の時パリへ出てピエールモントゥー、パリ交響楽団と共演してデビュー、大成功を 収めた。これを機会にロシアを去り、西側で活躍した。その時期にホロヴィッツ、ピアテゴルスキーと トリオを組んで演奏活動も行っている。 またその間にイザイにも師事したがイザイは、「もう私には教えることは何もない」 と言ったが、音楽的には種々の助言を与えている。

 1929年にはレオポルド・ストコフスキーの招聘を受け、フィラデルフィア交響楽団と共演して 大成功を収め、以後度々アメリカで演奏会を開き、アメリカの市民権を得ているが、彼はイギリスを 本拠地として活躍した。

 ミルスタインの比類無い演奏に対して、1966年にオーストリアから第一級十字勲章が授与されて いるほか、フランスのレジオンドヌール勲章を授与されている。
 ミルスタインはハイフェッツに匹敵するほどの技巧の持ち主であり、またミルスタイン独特の 気品に満ちた演奏は素晴らしいものである。特にハイフェッツの引退後、更に円熟味を増し、 70才を過ぎてもまだ矍鑠として衰えを知らない演奏をしており、筆者は、ハイフェッツの引退後、 ミルスタインがとって代わったものと考えており、非常に希有なVn奏者と考えている。

 彼の弓使いはアウアー流のものと少し異なっていると言われているが、弓の転換を彼ほど切れ目 無くスムースに行う事が出来るのは他に例を見ない様であり、それが70才を過ぎても少しも衰えを 示さなかった秘密かも知れない。
 筆者はフリューベック・デ・ブルゴス指揮、ニューフィルハーモニアと共演したグラズノフの Vn協奏曲とドヴォルザークVn協奏曲a-mollのLPを所持しているが、素晴らしい美音とその歌い口は、 円熟期のハイフェツに匹敵する素晴らしい演奏である。この頃では録音技術も進歩しておりいい音で 聞ける。

**************  エピソード  **************
 ミルスタインは大の飛行機嫌いであり、出来るだけ飛行機を利用しない範囲で
 しか楽旅をしなかった。その為か残念ながら来日はしなかった。
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(6)カンポーリ、アルフレード(Campoli、Alfredo)
カンポーリ
(1906〜1991)イタリア生まれ

イタリアはローマに生まれた。音楽学校には学ばず、Vn教授であった父から手ほどきを受けた。
12才でコンクールを受けて入賞し、13才でイギリスに渡って天才少年と騒がれ、女王から金メダルを 授与された。その後正式にデビューしてからコンサートに、レコーディングにと活躍している。
 1960年と1966年に来日しており、甘美な音色で聴衆を魅了している。
 カンポーリはイタリアらしくベルカント的な明るい音色に特徴があり、むせぶ様な甘美な音色を 聴かせる。

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(7)オイストラフ、ダヴィッド(Oistrakh、David)
オイストラフ
(1908〜1974)ロシア生まれ

 オイストラフはロシアはオデッサに生まれた。父は会計士、母は歌手でありいわば貧しい家柄で あったが、3才からVnになじみ始め、5才の時にオデッサ音楽院のアウアー系を引き継いだ ストリアルスキー(ミルステインの師でもある)に教わる様になったが、授業料を払う余裕が 無かったオイストラフをストリアルスキーは無料で教えた。

 ストリアルスキーはオイストラフ の並外れた暗譜力、フォームとリズム感の完璧さ、そして 何よりも想像力の豊かさに注目したが、彼を敢えて神童として育てることをしなかった。 15才までじっくりと育てた後、オデッサ音楽院に入学させた。1926年にオデッサ音楽院を卒業し、 ウクライナ地方を中心に演奏会を開いた。

 1928年にはモスクワでデビュー、1929年にはレニングラードでもデビューした。またウクライナ 地方のコンクールに優勝したのを手始めに、1930年には全ソヴィエト音楽コンクールにも優勝。 1935年27才の時にヴィエニアウスキー国際コンクールに挑戦したが、残念ながらジネット・ヌヴーの 後塵を拝する事になる(第2位)。然し1937年にはイザイコンクール(現エリザベート王妃国際 コンクール)に優勝して、国際的にもその名を知られるようになった。

 そしてこの間モスクワ音楽院から招聘されてVn科の講師になったが、1939年には教授となった。 然し第2次大戦の為、国外での活動は一切行わず、1946年にプラハを訪れるまでソヴィエト国内で のみ活躍した。
 1950年代に入ると1951年にフィレンツェ5月音楽祭に出演して成功したのをきっかけに、1954年に フランス、1955年には日本とアメリカにデビューするなど、世界各地を楽旅し、国際的に大きな 名声を博した。

 彼はトショスタコーヴィッチ、プロコフィエフ、ミヤコフスキー、ハチャトウリアン等多くの 作曲家から作品の献呈を受けている。残された録音も多いが、彼自身が指揮を兼ねたもの、或いは 彼が指揮をしたものもある。残念ながら楽旅の途中アムステルダムで心臓発作の為に客死した。 時に66才の若さであった。
 彼の正確無比で強靱なテクニックと豊かな音色、そして演奏スケールの大きさ、格調高い演奏は ロシア派最高の奏者と言うだけでは無く、現代世界最高峰の奏者と言うにふさわしいものであった。

****************  エピソード  ****************
 彼が初めてアメリカを訪れた際、記者に「貴方にとって最も難しい曲は何ですか」
  との問いに対して、私は最も難しい曲は弾きませんと、ハイフェッツと同様の
  返答をしている。彼が学習している生徒に対して、次のようなアドヴァイスを
  している。ゆっくりと注意深く練習することは勿論であるが、毎日をVnと共に
  暮らすという事が必要である。つまり朝4時間の練習をすれば、その日はもう
  全く弾かないと言うのではなく、朝、午後、夜というように適当な間隔をおいて、
  一日を通してVnと接する様に心掛ける事を勧めている。そして練習中には決して
  緊張感を失わずに集中することが重要である・・・と言っている。
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(8)ゴールドベルク、シモン(Goldberg、Szymon)
ゴールドベルク
(1909〜1993)ポーランド生まれ

 ゴールドベルクはワルシャワ近郊のヴウオツワヴェクで生まれた。
ワルシャワ音楽院教授であったミハイロヴィッチに手ほどきを受けているが、幼い頃より並々ならぬ 才能を発揮し、9才でベルリンへ行きフレッシュに師事している。このフレッシュから多大な影響を 受けたと言う。そしてフレッシュとフルトヴェングラーに対して絶大な尊敬の念を抱いている、と 本人が語っている。

 12才でワルシャワでデビュー、1925年16才の時ドレスデンフィルのコンサートマスターに就任、 そろそろドレスデンを去ろうと考えていた頃、フルトヴェングラーからベルリンフィルのコンサート マスターに、との要請があり、弱冠20才でベルリンフィルのコンサートマスターに就任した。

 然しその頃ゴールドベルクは独奏活動に進みたいと考えていた。何故ならばオーケストラに入るのは 時間の無駄の様に思えたからだ・・と彼は云っている。

然しフルトヴェングラーの様に偉大な指揮者と毎日会って多くのものが得られた事が時間の ロスよりも大きかったので結果的にとてもよい経験をしたと語っている。
 ナチの台頭によってベルリンを去り、イギリスに渡ってリリー・クラウスとデュオを組んで 演奏旅行を行い、世界的な名声を確立する。

1942年にジャワ島で日本軍の捕虜になり、2年間囚われの身となるが、終戦と共に解放されて 自由の身となる。1953年にはアメリカの市民権を得て演奏活動を再開1958年にはアムステルダムで オランダ室内管弦楽団を創設して音楽監督兼ソリストになっている。1978年からイエール大学や ジュリアード音楽院で教鞭を執るほか1980年からは、カーティス音楽院で後進の指導に当たった。

 彼はリリー・クラウスとのデュオの後ルプーとも共演している。リリー・クラウスについては、 彼女は立派なピアニストであり、彼女と共演するのは大好きであったが、後にルプーと共演した ものの方が、よりよかったと述懐している。
 晩年1993年以降は日本(富山県)に定住していたが1993年急性心不全の為に他界した。享年84才で あった。

***************  エピソード  *****************
 古楽器の演奏に関して、長らく室内オーケストラを指揮してきたゴールドベルクの
  話を聴くと「現在の古楽器奏者がやろうとしている事は立派な事だと思うが未だ
  それ程ではない、古楽器を用いて新しい大きなホールで演奏するなんて事は、私は
  間違っていると思う」と語っている。
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(9)メニューイン、ユーディ(Menuhin、Yehudi)
メニューイン
(1916〜1999)アメリカ生まれ

 メニューインはニューヨークで生まれたが、両親はユダヤ系のロシア人である。幼児からVnに 興味を示し、4才の時にシグモンド・アンカーの手ほどきを受けて忽ちのうちに上達。間もなく人前で 協奏曲を演奏したと言われる。続いて名教師パーシンガーに師事した。
1924年8才の時にサンフランシスコで、そして1927年、11才の時にニューヨークでデビューし センセーションを巻き起こしている。
 然しそれよりも翌年12才でカーネギーホールで、フリッツ・ブッシュの指揮のもとでベートーヴェンの Vn協奏曲を弾き、一夜にして世界的な名声を得る事となった。

 1929年にはロンドンでデビューしたが、同年ワルターに招かれてベルリンフィルと協演したが、 その時は実にバッハ、ベートーヴェン、ブラームスのVn協奏曲を一夜で弾くと言う前人未踏の プログラムを見事に成功させている。然しこの時は未だ弱冠13才(日本では中学1年生)の少年で あった。然しその時既に演奏技術のみならず、音楽的にも完成した素晴らしい演奏をしている。
 彼はカーネギーホールの演奏の頃より、エネスコに師事しているが,1929年にはブッシュにも師事を している。
 この様に10才を過ぎた頃から神童として時代の寵児になった。メニューインはその後も活発に 演奏活動を続けた。

   その他にもバース音楽祭を主宰したり、ウインザー音楽祭の主宰をする他、室内楽団の指揮活動や 後進の指導にも並々ならぬ意欲を示しており、ナイジェル・ケネディを育てている。
 唯彼の演奏は例えば評論家のヨアヒム・ハルトナックの著書によれば、彼の評価は少年期の 所謂神童時代と青年期、それに壮年期によって著しく異なると言う。彼の最盛期は〜青年期までであり、 その後は出来、不出来の激しい、不安定なものであり、必ずしも名演ばかりでは無いと言う。

 彼は余りにも早熟であった為にテクニックの基礎練習を疎かにした可能性がある。従って生涯を 通じて神童時のレヴェルを保てなかったのではなかろうか!

   昭和26年に来日しているが、その時点では筆者はラジオでしか聴くことが出来なかった。曲目は クロイッツェルソナタ。ピアノはアルフレッド・バラー氏と記憶しているが、Vnとピアノの見事な 掛け合い等、素晴らしい演奏であったと記憶している。

 然し年齢と共に先述した様に出来・不出来の波の大きい不安定な演奏と評価されることが多くなった。
 しかしながらメニューインは一世を風靡した大ヴィルトゥオーゾであることに異論は無いと考え られる。
 彼はド・ゴール将軍からロレーヌ十字賞を贈られていると共に、1945年にはレジヨン・ドヌール 勲章を授与されている。

****************  エピソード  ***************
  1947年頃に撮影され、日本には1951年の来日直前に上演された映画 「メニューイン」
  モンサンジョンによるドキュメンタリー"yehudi Menuhin”ーThe Violin of 
  The CenturyーEMIに一部が収録されている。これについて野村光一氏は次の様に
 評論している。悠揚迫らざる態度で熱演している時は、まるで野球選手がホームランを
 かっとばす時の様に爽快感を感じさせる。あんな迫力のある演奏は、今の世の如何なる
 Vn奏者も成し得ぬであろうと言っている。(芸術新潮1951年10月号 )
 彼の好調時の特徴を言い表したものであろう。
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(10)リッチ、ルッジェロ(Ricci、Ruggiero)
リッチ
(1918〜 )アメリカ生まれ

 リッチは貧しいイタリア移民の子供としてサンフランシスコで生まれた。
トロンボーン奏者の父に手ほどきを受けた後、メニューインの師でVnの名教師パーシンガーに 師事する。また彼は後にクーレンカンプフやピアストロにも師事している。
 8才でサンフランシスコでデビュー、10才の時(1928年)には師匠パーシンガーのピアノ伴奏で リサイタルを開いて反響を呼んでいる。その2年後の1930年にはロンドンでデビューし、大好評を 博している。

 その後ヨーロッパ各地を楽旅して好評を以て迎えられた。一時期・一部の愛好家には第二の メニューインと、もて囃された事があるが、テクニックの上では全く遜色は無かったが音量及び 音楽表現の上では好調時のメニューインには及ばない、と言われている。
 然し彼の演奏はパガニーニの奇想曲や協奏曲等の演奏は、実に見事なものである共に、彼の レパートリーの広さや演奏の質の高さは端倪すべからぬものがある。
 また録音も多く残しており、矢張り現代最高峰のヴィルトゥオーゾの一人として数えられる人物と 考えられる。

***************  エピソード  ****************
  音楽評論家が、彼の事をフィードラーと呼んでいる、それもフィードラーを二流の
   Vn奏者よりも格上であるとの言い訳をつけている。
  フィードラーはこの冊子の最初のところで述べたようにVnが宮廷音楽に取り入れ
   られて以来、その進化の方向が全く異なっており、筆者らはこの発言はVnのヴィル
   トゥオーゾの尊厳を傷つけるものと理解をしており、音楽評論のあり方に少なから
   ず疑問を抱いている。
  芸術家でない評論家でも、少なくとも、アマチュアの音楽愛好家は評論を頼りに
   して演奏会に出かけたり、CDの選択をするわけであり、評論家の発言の影響は非常
   に大きい事を肝に銘ずるべきであろうと考える。
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(11)シェーリング、ヘンリック(Szeryng、Henryk)
シェリング
(1918〜198)ポーランド生まれ

     シェーリングはポーランドはワルシャワに生まれた。5才の時に優れたピアニストであった母親から ピアノ習い始めたが、やがてVnに興味を持ち2年後楽器をVnの持ち替える。そしてアウアー門下で あったモーリス・フレンケルに師事した。
 着実に才能を伸ばし、3年後、9才になったシェーリングのVnを聴いたフーベルマンは彼を フレッシュの許に送ることを熱心に勧めた。
 その年にシェーリングはベルリンに赴きフレッシュに師事。その3年後にはワルシャワ、ブカレスト、 ヴィーンそしてパリでデビューして成功を収めた。

  然しその後はパリに留まりティボーに師事、またティボーの勧めで、運弓法の技術を完全に マスターする為に、ガブリエル・ブイヨーに指導を受けている。此の時点でシェーリングは対位法を ジュオン、作曲をブーランジェに学んでいる。
 1935年にはルーマニア王妃から文化勲章を授与される。同年ワルシャワでで行った、ベートーヴェンの Vn協奏曲の演奏が、例を見ない成功を収めたが、彼はもう一度パリへ戻り3年間作曲の勉強をして、 音楽院の作曲のクラスを一等賞で卒業した。

 彼の演奏活動は第2次大戦と共に始まるが、彼は一時期兵役に服し、連合軍の為に300回にも及ぶ 演奏会を行ったという。然し連合軍の為に働いたが、自分自身の演奏活動の中断はしなかった。  その後シェーリングはメキシコに渡り、市民権を得て定住することになるが、主としてメキシコ大学で 教鞭を執ることになる。
 たまたまメキシコに演奏旅行に来ていたアルトゥール・ルビンシュタインが彼の演奏を聴き、 その実力に驚いて、直ちにヨーロッパの音楽界の重要人物に紹介すると共に、彼とベートーヴェンの Vnソナタを共演したものを録音した為に、シェーリングの名声は一躍国際的なものとなる。

 「ルビンシュタインとのベートーヴェンVnソナタは現在でも最高の名演とされている。」

 この様にしてシェーリングは今世紀を代表するヴィルトゥオーゾとして、その名声は揺るぎない ものとなった。
 日本へは、1965年を皮切りに1966年、67年、76年、81年と屡々来日している。
 シェーリングは実直であるが、非常に神経質な人物であり、それが演奏にも現れることがあったが、 彼のバッハの無伴奏Vnパルティータ、ソナタはなお名演として語り継がれている。そのシェーリングは 晩年極度のアルコール依存症で亡くなっているが、現存する最大の巨匠のイメージを保つことに 腐心して自らの演奏に完璧さを求めて、呻吟した結果では無かろうか。

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(12)ヌヴー、ジネット(Neveu、Ginette)
ヌヴー
(1919〜1949)フランス生まれ

      ヌヴーはパリに生まれ、5才の時に母の手ほどきを受けた。父はアマチュアの弦楽器奏者であり 母はVnの教師であったが、ヌヴーは両親とショパンの曲を聴いて涙したと言う、生まれ乍らにして 音楽に鋭い感性を持っていた。
 5才の時からパリ音楽大学のタリュエル夫人についてVnを学び始めた。7才の時にコロンヌ管弦楽団と ブルッフのVn協奏曲を協演してデビューしている。そして10才の時にはエネスコにレッスンを受けた ことがある。

 11才でパリ音楽院に入学、名教師プシューリに師事、作曲をブーランジェについて学ぶが、僅か 半年でパリ音楽院の最優秀賞を得て卒業した。
 13才の時ウイーンの国際コンクールに出場するが、4位にとどまった。
 然しこの時彼女の才能を見抜いたフレッシュは無料で彼女の仕上げを引き受け、4年間フレッシュに 師事した。

 そして16才の時ヴィエニアウスキー国際コンクールに出場して、圧倒的な名演で優勝した。この時の 第二位は27才のダヴィッド・オイストラフであり、26票差という圧倒的な大差であったと言う。
 いかにヌヴーが素晴らしいものであったのかを如実に物語っている。
 優勝後彼女はハンブルグでヨッフムの指揮でブラームスのVn協奏曲をを弾き熱狂的な大成功を収めた。

   以来彼女ははヨーロッパ各地、南アメリカ等、世界を駆けめぐり演奏会を開いており、至る所で クライスラー以来とか、現代最高のヴィルトゥオーゾを2人合わせても、彼女にかなわないと言う、 最高の評価を受けている。非常に個性的であり、男勝りの頑固さを持っていると共に、早くから自分の 音楽というものを確立していた人物である。
 従って色んな教師に師事したが、教師から取り入れるべきところは、鈍欲に取り入れたが、自分自身を 決して崩さず、教育は受けたものの、結局は独学で築き上げた様なものである。

 モンサンジョンのDVDの中で彼女の演奏の断片を読みとることが出来るが、ヌヴーが指揮者の方を 見つめる眼差しは、これ程集中して彼女の音楽を創り上げたのだと言う感動を覚えずにはいられない。
 夭折という場合多くはノスタルジーを伴う場合が多いが、彼女の場合はそう言うこととは全く 無関係であり、全く素晴らしいヴィルトゥオーゾであった、と言うことは疑う余地もない。

 彼女は1949年10月28日アメリカに向かうべく、彼女を乗せたエールフランス機が濃霧の中で アゾレス諸島、アルガヴィアの峰に激突して遭難した。享年30才の余りにも早すぎる死であった。


****************  エピソード  ****************
 彼女の最初の師であったタリュエル夫人は、ヌヴーが同じフレーズを50回もさらう事が
  屡々あるので、タリュエル夫人は「もう充分よ 」と言うと、彼女は「でも、もっと
  美しく弾かなきゃならないもの」と答えたという。
 10才の時に当時バッハ演奏の権威者であったエネスコにレッスンを受けた事がある。
 エネスコは彼女にバッハのシャコンヌを弾くように指示した。そしてあるパッセージに
  来たとき、エネスコは彼女を遮り「私ならそうは弾かないよ」と言ったところ、10才
  にもならないヌヴーは「私はこの曲を私の理解した通りに弾くわ、ピンと来ない弾き
  方では弾けないもの」と答えたと言う。エネスコは黙って次を続けさせた、微笑み
  乍ら・・・自己に忠実な芯の強さは、10才にも 満たないうちに芽生えていた様である。
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 *********** ヴァイオリン(Vn)は本当に不可思議な楽器である!*******

平成14年10月17日  ***編集責任・錦生如雪***


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