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ヴァイオリンとヴァイオリン音楽



第三楽章 ヴァイオリニスト


(Mr。ビーハイブ楽師の話題メモ帳)

(その8)20世紀初頭から中葉期

20世紀初頭から中葉にかけて活躍したヴィルトゥオーゾ達(続き)

 
<目   次>
<スターン><グリュミオー><ギトリス>
<コーガン><ヘンデル><スーク>
<オイストラフ>

(13)スターン、アイザック(Stern、Isaac)
スターン
(1920〜2001)ロシア生まれ

 スターンはロシアのクレメネッツに生まれた。彼は生まれて間もなく、両親と共にアメリカの サンフランシスコに移住した。
 6才の時に母親からピアノを習い始めたが、友達が弾くヴァイオリン(以下、Vn)に一層興味を示した。その為に サンフランシスコ音楽院の教師であったロバート・ポラックに師事、10才でサンフランシスコ音楽院に 入学し、アウアー直系のナウム・ブラインダーに師事した。
 次いでニューヨークで名教師パーシンガーにも師事した。(メニューインの師でもある。)
 11才の時にピエール・モントゥーの指揮、サンフランシスコ交響楽団とバッハの2重協奏曲を弾いて デビューしているが、その時の第二Vnは師のナウム・ブラインダーであった。その後ロスアンジェルス、 シカゴ交響楽団等の独奏者として活躍する。

 1937年(17才)にはニューヨークでデビュー。1943年(23才)にはカーネギーホールデビューで 大成功を収める。この時期からスターンの輝かしい音楽人生が始まり、アメリカ第一級の演奏家に なった。また現CBSとの専属契約を結んで、各種の録音を行い、彼の名声は世界的なものになる。

 スターンはローズ、イストミンとトリオを組んで、室内楽活動も行っている。
 彼の演奏については正確であるが、切れ味が非常に鋭く、一面非常にクールであると言われていた 事があり、筆者もそのような感触を持っていたが、齢を重ねると共に、柔らかみが増し、暖かい 素晴らしい演奏へと変貌を遂げていったように思われる。齢を重ねる事によって衒いが無くなり、 この様に暖かく人間味のある演奏が出来る様になるのかと、彼の絶頂期の演奏から、客観的に眺めて いると、しみじみと感じられる。

  「美しく齢を重ねることは如何に素晴らしいことか!!!」
 ただ、評論家の一部には、技術の衰えと、とる人もいる様である。
 彼はジュリアードの名教師イヴァン・ガラミアンとドロシー・ディレイと親しく、ジュリアード 音楽院の生徒が成長して独り立ち段階に来ると、スターンに紹介すると言うシステムを採っていた 様である。

 また彼はアメリカの音楽界に大きな力を持っていたが、これはカーネギーホールが老朽化し閉館、 破壊される事になった時、スターンは、この由緒ある音楽堂の救済の為に奔走した。
 そしてニューヨーク市に買い取らせて改修し、その存続を実現させた事もあり、スターンは アメリカの音楽界に力を持つ様になったものと思われる。 然し彼は温厚篤実な性格であり、 若い音楽家を積極的に援助しており、若い音楽家からも慕われていたようである。

****************  エピソード  **************
 一説によればスターンがカーネギーホールデビューで大成功を収めたとき、
  カーネギーホールで彼の演奏を聴いていたハイフェッツは、彼の存在に脅威を感じ、
  一年間演奏活動を取りやめた?と言うことである。
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(14)グリュミオー、アルトゥール(Grumiaux、Arthur)
グリュミオー
(1921〜1986)ベルギー生まれ

 グリュミオーはベルギー近郊のペルワンに生まれた。グリュミオーとVnの関わりは、彼の5才の時に 始まる。彼は、祖父がVnを弾いているのを見て、2本の棒きれで、真似をして遊んでいたが、その リズム感と言い、弓使いを真似る巧みさを見て、祖父は彼の音楽的才能を感じ取り、彼にVnとピアノを 一年間教えた。その後6才でシャルルロワ音楽院に入学してVnとピアノを学ぶ。

 そして5年後11才の時にVn奏者とピアニストの国家試験に合格して、ブリュッセル王立音楽院の アルフレッド・デュボアのマスタークラスに入る資格を得た。音楽院入学の機会にグリュミオーはVnに 専念する事とにした。2年後には同音楽院のコンクールで一等賞を獲得し、1936年にはパリに出て エネスコに師事した。そして1936年にはアンリ・ヴユータン賞を受賞、フランソワ・プリュム賞を 始め、優秀演奏家賞、対位法とフーガ賞等、数々の賞に輝く、1940年にはベルギー政府から初の ヴィルトゥオージテ賞が贈られた。

 1945年にモーツアルトの第3協奏曲でデビューし、その演奏を聴いた人々の間では〈ティボーの再来〉と 騒がれ、フランスを中心として世界的な活躍をした。
 一方室内楽にも力を入れ、プロアルテ四重奏団で屡々演奏をしている。
 この様に彼は現代最高峰のVn奏者と言うに相応しい人物であったが、彼の顔付きからも感じられる 様に、非常に誠実で、謙虚な人物であった。

 彼の音色は実に美しく、豊かであった。この点ミルスタインに似通ったところがある。
 美しい音と言えば現在のパールマンも美音の持ち主であるが。パールマンの場合、彼の明るい性格、 を反映して明るく、輝かしい美音であるが、グリュミオーの場合はしっとりと気品に満ちている。
 筆者の所持しているCDの中で、バッハの無伴奏ソナタとパルティータが筆者のお気に入りであるが、 ゆったりとしたテンポでしっとりと弾いており、素晴らしい演奏である。
なお彼は1973年に男爵を叙爵している。

***************  エピソード  *****************
 彼は多くのレパートリーを持っており録音もしているが、現代曲はアルバンベルクまで
  のようで、前衛的なものは演奏していない。
 クララ・ハスキルとのレコード録音に際し、1時間も練習しないで、少し合わせただけで
  録音の準備が出来てしまった。曲に対するアプローチという点で、「私達(グルミオーと
  ハスキル)は、意見と感情表現において一致してしまった」といっている。
 クララ・ハスキルとは非常に相性が良い様で、多くの録音を残している。
 「Vnはー歌う楽器ーであって、特殊な効果や響きを出すようには作られていない」と言う。   
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(15)ギトリス、イヴリー(Gitlis、Ivry)
ギトリス
(1922〜 )イスラエル生まれ

 ギトリスはイスラエルのハイファに生まれる。10才の時フーベルマンに才能を認められて、 パリ音楽院に入学した。卒業後はエネスコ、ティボー、フレッシュ等、当代最高の名教師に師事して いる。
 第2次大戦後ロンドンでデビューして以来、一躍欧米にその名が知れ渡った。最初は技巧派として 一世を風靡し、パガニーニの曲などを取り上げていたが、20世紀の中葉になると、現代音楽を積極的に 取り上げ、演奏するようになった。
 これは、彼のような個性的な演奏が、古典、ロマン派の表現に違和感を感じるようになり、積極的に 近代・現代音楽を取り入れたのではないかと考えられる。

 筆者は1956年頃彼の弾くベルクの協奏曲を食い入るようにして幾度と無く聞き、感動を覚えたもので あるが、尤もその時期の日本は、吉田秀和氏を所長とする現代音楽研究所が発足したばかりの黎明期で あり、現代音楽はまだもの珍しく、彼の弾くベルクは非常に新鮮に感じられたものである。
 当然日本ではまだ発売されていなくて、輸入盤に頼るほか無かったような音楽事情でもあった。

 この様に彼は、近代、現代の音楽を積極的に取り上げており、20世紀中葉に活躍した ヴィルトゥオーゾのレパートリーとしては、異例なものであろう。
 その後マルタ・アルゲリッチと言う理想的なパートナーと組んでギトリスの演奏は、 益々円熟味を加える。

 日本にも幾度と無く来ているが、ごく最近・・1999年の別府音楽祭(マルタ・アルゲリッチが 音楽監督を務める)ではギトリスが飛び入りの形で、アルゲリッチとクロイッツェルソナタを 演奏しているが、かなり個性的な演奏であり、違和感を感じる部分もあったが、考えてみると、 彼の生年は1922年であり、もう80才に手が届こうとするVn奏者がこれだけの演奏が出来るというのは、 希有な事であり、矢張り彼は20世紀に於ける第一級のヴィルトゥオーゾであろう。
 日本では「木野雅之」氏の師である。
  

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(16)コーガン、レオニード(Kogan、Leonid)
コーガン
(1924〜1982)ロシア生まれ

 コーガンは1924年ウクライナのドニエプロペトロフスクに生まれる。7才からウクライナの 音楽学校で、Vnを学んだが、10才の時に一家がモスクワへ転居したのに伴って、モスクワ音楽院に 転校した。従って神童としては非常に遅い出発であったが、アブラム・ヤンポリスキーに師事、 ヤンポリスキーの天才児のクラスに受け入れられて、忽ちのうちに才能を表した。そして2年後の 12才の時には他の音楽院生を凌いでしまった。

1936年に偶々モスクワを訪れたティボーが、コーガンの演奏を聴いて、将来の大成功を予言したと 言われている。
 1944年にはモスクワ・フィルハーモニーの独奏者として迎え入れられる等、在学中から国内での 演奏活動を展開していたが、1947年〈プラハの春〉国際コンクールで優勝、更に1951年には エリザベト王妃国際コンクールで見事優勝している。
 以来ロシアを代表する名Vn奏者として世界的な活躍を続ける傍ら、1952年からは母校のモスクワ 音楽院の教授に就任している。

 コーガン夫人はギレリスの妹であり、ギレリスとは親戚としてのつながりだけでなく、音楽的にも 密接なつながりを持っている。このコーガン夫人もVn奏者であり、一説によるとコーガンよりも うまいと評されるほどの名手であったと言う。
 コーガンはまた義兄のギレリス、ロストロポーヴィッチとトリオを組み、室内楽の分野でも、 非常に活躍をしている。

 コーガンの演奏について、比類のないテクニシャンであるが、知的にすぎるとか、彼の演奏は怜悧で あるという評論も耳にするが、D・オイストラッフとロシアを2分するヴィルトゥオーゾであった ことは間違いはないが、オイストラフが偉大なだけに、やや陰に隠れた感じがするのは否めない。 然し実力の上では劣るものでは無い。

 日本には8回来ているが、9回目にはソ連がビザを発給しなかった為に9回目の来日は果たせ なかった。この理由は不明であるが、当時のソ連では芸術家の亡命を避ける為に、外国での演奏会には KGB要員がぴったりと付き添って来る為、自由は無かった。
コーガンの門下ではムローヴァがいるが、最近の若い奏者とひと味違う彫りの深いVn奏者である。 日本では佐藤陽子が彼の門下生である。

****************  エピソード  ****************
 筆者の個人的な、経験であるが、コーガンをレコードで聴いて大変なファンであった
  T氏と来日したコーガンの演奏会を聞きに行った事がある。
 「確か1970年代後半」演奏会が終了後、彼は「私の描いていたコーガンと少し違う」と、
 怪訝な様子であった。彼はよく調整された音の良いレコードでのコーガンのファンで
 あった為に、がっかりしたものと思われる。
 レコード技術はカラヤン以来テープの切り接ぎ等の技術が巧みになった事と、録音
  技術が非常に向上し調整を加える為に、ステージで聴くよりも良い音?、良い演奏の
  部分を切り接ぎで聴くことになる。これを基準に生演奏と比較すると往々にしてこの
  様な現象が起こる事がある。従って基本は生演奏であることを念頭に置くべきである。
 「極論するならば、LP、CDはいいとこ取りでしかも特定音を強調したり、と調整されて
 いるので、何を聴かされているのか分からない点がある」
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 (17)ヘンデル、イダ(Haendel、Ida)
ヘンデル
(1924〜 )ポーランド生まれ

 彼女はソヴィエトとの国境近くのヘルムで生まれた。
4才になる前から父親にVnの手ほどきを受け、次いでシュテファン・フレンケル、 シモン・ゴールドベルクに師事そしてワルシャワ音楽院を卒業した。
 1935年にヴィエニアフスキー国際コンクールに出場し3位に入賞する。この時はジネット・ヌヴーが、 2位のD・オイストラフに大差を付けて優勝した時である。その時の3位がイダ・ヘンデルであった。

 彼女の生年に若干曖昧な点があるが、1924年の出生は間違いないと思われるので、11才での 3位入賞であり、かなり早熟な天才少女であった事は事実である。
 その後フレッシュ、シゲティ、エネスコにも師事して磨きをかける。そしてヘンリーウッド指揮の 許でブラームスのVn協奏曲を演奏してデビューした。
 その後イギリスでもデビューして、イギリスに定住するが、1950年代以降はカナダに定住している。  彼女の目標はハイフェッツであった様で、彼を非常に尊敬しているが、フレッシュの影響も色濃く 残っている。

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(18)スーク、ヨゼフ
(Suk、Josef)

スーク・目下収集中
(1929年〜 )チェコ生まれ

     スークはチェコのプラハで生まれた。同姓同名の祖父も有名なVn奏者で作曲家でもあったが、 その妻はドヴォルザークの娘である。従ってスークはドヴォルザークの曾孫に当たる。この様に 大変な音楽的一族の恵まれた環境でスークは育った。

   当然の事ながらスークは早くから才能を表し、当時の名Vn奏者であったヤロスラフ・コツィアーンに 英才教育を受けた。プラハ音楽院で勉強したが、在学中に学友とトリオを結成、卒業後は プラハ四重奏団の第一Vn奏者となった。

 1952年には、ヤン・パネンカ(P)とヨセフ・フッフロ(Vc)とスークトリオを結成して、 スークは室内楽奏者として名声を高めた。
 その他に独奏活動も活発にやり、世界を楽旅する。彼の演奏は澄み切った音色で、磨き抜かれて いるのが特徴であるが、彼は非常に控え目な人物であり、自分から目立つことは余り好まなかった。
その為か独奏自体も地味に感じられる場合があった。然し室内楽の演奏では、その性格がうまく 調和を生み、素晴らしい演奏が醸し出された。かなりのレパートリーがあるが、とりわけ スラヴィックなプログラムが得意であったことは云うまでもない。

 筆者は、スークの演奏をスークトリオでの来日時と独奏での来日時に聴いているが、独奏時の 「クロイッツェルソナタ」よりも、トリオでの演奏の方が深く心に残っている。
彼は祖国チェコでは英雄的存在であり、1961年にはチェコ政府よりストラディヴァリウスを 贈与されている。

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(19)オイストラッフ、イーゴリ(Oistrakh、Igor)
オイストラフ
(1931〜 )ロシア生まれ

     ダヴィッド・オイストラッフの息子として矢張りオデッサに生まれる。幼少より父にVnの手ほどきを 受け、モスクワ音楽院でも父に師事している。また父の師でもあった、ストリアルスキーにも師事を している。
16才の時に父とバッハのドッペルコンチェルトを弾いて注目される。1949年にはブダペストに 於ける世界青年Vnコンクールで優勝したのに続き、1952年のヴィエニアウスキー国際コンクールで優勝。

翌1953年からパリで本格的な演奏活動に入った。1960、1967年に来日している。彼の場合、父親が 余りにも偉大であった為に些か影が薄いが、然しロシアの中堅Vn奏者として実力を高く評価されている。

***************  エピソード  *****************
 「テクニックを作り上げる為には、14〜18才の時期が最も重要だと私は考えています。
  その間にVnのテクニックのあらゆる面をマスターするべきである。私はその4年間に
  急速の進歩をしました。そしてブダペストのコンクールで優勝したのです。」
  とインタビューで語っている。
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*********** ヴァイオリン(Vn)は本当に不可思議な楽器である!*******

               次回は20中葉から現在活躍中のVn奏者達です
                     (ご期待下さい)


平成14年10月22日  ***編集責任・錦生如雪***


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