日本に西洋音楽が伝来した経緯については、楽器の項で少し触れたが、日本でのヴァイオリン
(以下、Vnと略記)演奏の歴史を眺める前に、少し復習をしておきたい。
日本人が初めて西洋の音楽に接したのは天文十八年(1549年)の事で、ポルトガルの国王であった
ジョアン三世の要請により、東インド管区長として派遣されたイエズス会のフランシスコ・ザビエルに
よるものである。
ザビエルは鹿児島に上陸後、平戸、山口を経て京都に上り、日本の中心地であった京都で布教を
始めようと考えていた様である。そして織田信長に謁見して、信長の前でクラヴォ?(ヴィオール)を
弾いて聴かせたところ、信長は非常に喜んだと伝えられている。時に今を遡ること420余年前の事で
ある。
然しその頃京都は戦乱のさ中であり、ザビエルは京都での布教をあきらめて、山口に戻り、山口を
拠点として布教を始めた。
ザビエルは山口での布教を始めるに当たり、当時の守護大名であった大内義隆に布教許可を得る
ために、数々の品物を献上しているが、その中に楽器も含まれていた。
大内義隆記によれば「十三の琴の糸をヒカザルニ五調子、十二調子を吟ずる」と記されている様で
あるが、「クラヴォ」であったと言われている。このクラヴォは鍵盤楽器でクラヴィコルド?の事で
あったものと考えられている。
平戸でのキリシタンの音楽教育記録では、1560年頃にはキリシタンの子弟の多くは「ミゼレレ
・メイ・デウス」を覚え、慈善院の前にある十字架の所まで、毎日行進をして、「アヴェ・クルス」を
歌ったと言われている。
この様な少年・少女による聖歌隊は布教先の各地で創設され、「ディック・ノービス・マリーア」や
「アレルヤ」等々を歌ったことが報じられている。この様に布教の初期には歌が主体であった。
ザビエルは日本で早くミサをやりたかった様であるが、手分けをして布教に当たっていた為に
果たせぬまま日本を離れ、再び日本を訪れることはなく、また故国スペインに帰ることもなく、
客死してしまった。さぞかし無念であった事と思われる。
この様にザビエルが離日してからも、キリシタン音楽は各地に広がりを見せ、楽器の伝習も徐々に
始められた。初期には「ヴィオラ・ダルコ」を教え始めたと言われているが、このダルコというのは
弓と言う意味であり、擦弦楽器であることには間違いは無いが、これがヴィオラ・ダ・ガンバ(足)で
あったのか、肩や腕で支えて弾くブラッチョ(腕)のタイプのヴィオルであったのか、定かではない。
西洋でもVnの出現するのはこの時代から更に約100年後の1650年頃、アンドレア・アマティによって
完成されたものである。この様にキリシタンの音楽はかなりの広がりを見せるが、江戸幕府の鎖国政策、
ひいてはキリシタンの弾圧を行った為にキリシタン音楽は一挙に途絶えてしまった。
然し乍ら平戸地方の隠れキリシタンの間では過去のキリシタンの儀式が今なお色濃く残されており、
その一つに生月島に伝承された「オラショ」(ラテン語でオラツィオ(祈り)の転訛したもの)が、
民間の儀式として細々乍ら残っている。
その他に天正少年使節団や伊勢の船頭・大黒屋光大夫の漂流記を纏めた「北差聞略」は先述の通りで
ある。
注1:筆者は生月島の長老によるオラショの再現をヴィデオで見た事があるが、 今日に至るまで地方の儀式として脈々と受け継がれてきたものを感慨深く 鑑賞した事を覚えている。 注2:「山口では何故かザビエルと濁らずに、サビエルと言い伝えられている ・・・筆者は平成5年に、この山口のサビエル教会を訪ねた事があるが、 運悪く不審火で焼失した直後で、焼け跡から焼けこげた匂いの残る時期で あり、大変残念な思いをした。」
前述したように、日本に於ける西洋音楽はキリスト教の典礼の音楽から伝承されたものであるが、
江戸幕府の鎖国政策によって、1639年から1852年のペリーの来航まで完全に途絶えてしまった。
その為に、現在我々が享受している西洋音楽は実質的には明治政府が必要に迫られた為に、
明治12年に文部省内に伊沢修二を長として音楽取調掛を制定した事を嚆矢とする。
然し日本で西洋音楽が演奏されたのは、ペリーの来航後1863年(文久3年)に来日したロビオ
(Robbio)がVnを演奏しており、彼によって日本のVn音楽の歴史が開かれたものと言われているが、
その聴衆の中に何人の日本人がいたかは不明であると共に、日本人がいたとしても全くの無関心であり、
日本の音楽文化に殆ど影響を及ぼさなかったと言われている。
文部省は音楽取調掛の制定により、当然の事乍ら、伝習生の育成に取りかかったが、第一期生の
半数近くが、西洋音楽の修得を急ぐ宮内庁の伶人であり、西洋音楽はまだごく初歩の時代であった
事に間違いはない。
そこで、伊沢は音楽的才能のある人物を公費でもって欧米に派遣して帰国後、後輩の指導に当たる
人物の養成をはかった。
1887年(明治20年)音楽取調掛は東京音楽学校となり、優等の芸術家を養成すると言う伊沢修二の
建議により、音楽の専門の学校となった。
ここで活躍をしたのが、洋楽界初の天才と言われた幸田延(幸田露伴の妹)である。
はじめはアメリカから来たメーソンに音楽を学ぶが、Vnは多久随に学んでいる。、才能のある
幸田延は文部省から派遣されてボストンに1年、ウイーンで5年間留学をして帰国した。彼女の
専門はVnであったが、ピアノも学んでおり、作曲法としては、対位法を学んだ。
帰国後彼女は東京音楽学校で教鞭をとることとなる。その後8才年下の 安藤幸(幸田幸・
幸田延の妹)も抜群の才能をみせ、矢張りドイツでヨアヒム並びにフレッシュにも学び、帰国後、
東京音楽学校で教鞭を執った。昭和7年に教授を辞めて、その後は講師として昭和17年まで在職した
ので彼女の生徒は夥しい数になる。
安藤幸より4年前に生まれた才女「頼母木 駒」も東京音楽学校でVnをディットリッヒに学び
昭和5年まで母校でVnを教えた。
また明治32年には幸田延の推薦で、外国人教師として、アウグスト・ユンケルが東京音楽学校に
雇い入れられるが、このユンケルも日本のVn技術の発展に大きく貢献した忘れられない人物である。
当時東京音楽学校には、山田源一郎、小山作之助等がVn教授として活躍していた。
この様に明治初期から中期に掛けてはVn演奏の面では女性が先導する形で進歩したものと見られる。
明治中期以降には多くのVn教育者がいたが、世界に通用する様な独奏者は輩出されなかった。然し
西洋音楽が渡来してから20年そこそこの時期であり、当然の事と思われる。明治後期から昭和の
初期にかけては、レオポルド・アウアーに師事し、日本の小野俊二と結婚して来日した小野アンナが
日本のVn界の発展に大いに貢献し、数々の名演奏家を育てた。
また同じくレオポルド・アウアーに師事した、モギレフスキーが1926年に来日、東京音楽学校、
国立音楽学校で教鞭を執り、数々の名Vn奏者を育てている。
それに少し遅れることになるが、大正中期に入って安藤幸に師事した鈴木慎一(明治31年生)は
早くから、Vnの早期教育が大切であることを提唱すると共に、鈴木メソッドを確立する。
鈴木メソッドとは、「耳から確実に楽曲を覚えさせ、理解させた上で、レッスンを進めるという
方式」で、この鈴木メソッドは日本だけでは無く、世界的な広がりを見せ、確立後50数年を経た
現在でもこの方式を取り入れている教育者が、かなりいることも事実である。
この鈴木慎一に少し遅れて誕生し、多久寅、レオニード・クロイッツァーに師事した鷲見三郎
(明治35年生)が、やはり第二次大戦の終戦前後から、自由学園でVnの指導を始め、夥しい数の、
そして世界に通じる名Vn奏者を育てた。
この様に、明治末期から昭和初期にかけては外国人指導者や、日本の優れた指導者により、多くの
優秀なVn奏者が誕生した。
そして遂に小野アンナ、モギレフスキーに師事した 世界的Vn奏者・諏訪根自子が誕生した。
昭和11年の事である。
その後これらの名指導者によって次々と優秀なVn奏者が誕生するが、そのはしりが前述の
諏訪根自子である。その諏訪根自子と共に大正生まれの3美人Vn奏者と言われた巖本真理
(小野アンナに師事)服部豊子(旧姓 植野)がいる。
同時期に辻吉之助に師事した辻久子、またエルネスト・トマシッチに師事した遠藤真理らがいる。
この様に昭和初期から第二次大戦後にかけて、世界に通じる奏者達が、日本のVn界を席巻するように
なる。これを見ても矢張り日本のVn界は女性の主導によって発展してきた様に思われる。
然しその後、鈴木慎一、モギレフスキー、ジンバリストに師事し、天才と謳われた江藤俊哉や、
鈴木慎一に師事した豊田耕児、ウルリッヒ・グレーリング、渡邊暁雄に師事した岩淵龍太郎、
辻吉之助、鷲見三郎等に師事した久保田良作、や少し遅れて鈴木慎一、F、クドラーチェックに
師事した小林武史、その弟で、鈴木慎一、イワン・ガラミアンに師事した小林健次等々男性の
優れたVn奏者が続々と誕生する。
この様に昭和初期には第二次大戦により、中断されるという事態に至ったものの、戦後のVn界は
徐々に活況を呈し、世界的なVn奏者が数多く出現するが、昭和60年頃には竹澤恭子、漆原啓子・朝子
姉妹、五嶋みどり、諏訪内晶子、庄司紗矢香、樫本大進等々の世界に通じると言うよりも、世界でも
一流と見られるVn奏者が続々と誕生するに至る。
また最近では、世界のコンクールの上位入賞者には必ずと言っていい程、日本人の名前が見られる。 本稿を書いている間にも、チャイコフスキー国際コンクールで川久保賜紀が最高位を受賞し、 山田晃子がロンティボー国際コンクールを最年少(16才)で優勝すると言うニュースも飛び込んで 来ている。
(注)筆者が戦後間もなくVnの練習を始めた頃のメソッドは ホーマン1,2,3。カイザー1,2,3。クロイッツァー。シュポア。ドント 等が用いられ、カイザーと併用してスケールの練習をするというのが、 通常のメニューであった。 然し練習曲だけでは、面白みが無いのでカイザーに入った頃から、 練習曲に加えて、小曲をさらう様に指導されたものである。 然し明治の歴史を見て見ると、鈴木米次郎が東京音学校を卒業したのは ホーマン2と本人が言っているので、幸田延を除いて明治20年頃の Vn技術は今から見ればほんの初歩の段階の程度であったものと見られる。 幸田延は明治23年にウイーンへ留学しているが、5年後の帰朝演奏を 上野の音楽学校の講堂で行っている。 その時の曲目はメンデルスゾーンのVn協奏曲の第一楽章であったと 記録されている。この時期にメンデルスゾーンのVn協奏曲を弾けたのは 恐らく幸田延だけであった様である。