ヴァイオリンとヴァイオリン音楽



第三楽章 ヴァイオリニスト


(Mr。ビーハイブ楽師の話題メモ帳)

(その16)「日本のヴァイオリニスト」


バイオグラフィー(1)

 

1:幸田 延

 (1870・明治3年〜1946・昭和21年)東京生まれ。

 幸田延が西洋音楽に触れたのは12才の時である。音楽取調所のお雇い教師として来日していた メーソンに才能を見いだされ、音楽の専門家になることを勧められ、延は音楽取調所に入学する。 早速非凡な才能を発揮し3年で卒業する。
 延はピアノを専門にするつもりであったが、ディートリッヒにヴァイオリン(以下、Vn)を学んだ。そして1889年・明治22年 19才で官費でアメリカ(ボストン)に留学するが、一年で一旦帰国する。そして、すぐさま今度は ウイーンに留学してVnをヘルメスベルガーJrに、和声学をロバート・フックスに学んでいる。 ウイーンでピアノ、Vn、作曲法、声楽、と音楽全般について学び、明治28年に帰国した。何としても 西洋音楽を学び取らなければと言う強烈な思いに支えられた留学であったが、彼女は素晴らしい才能を 発揮して、それを現実のものとした。

 この様にして故郷へ錦を飾って帰国した彼女は賞賛の嵐で迎えられる。東京音楽学校では、Vnのみ ではなく、音楽のあらゆる分野についての教育を任され、着実にその実績を上げた。滝廉太郎、三浦環 等の名手を育てた事で、その実力が分かる。然し勝ち気で、しかも日本の女性で2番目に高級取り (当時で2,300円)であったと言う彼女に風当たりが強く、上野の西太后の異名を付けられるなど、 男尊女卑の狭間にあって、栄光と屈辱を味わいながら遂に40才で東京音楽学校を辞せざるを得なく なった。

 その後、彼女は音楽界とは一切関わりを持たずに、もっぱら上流階級の子弟や皇族の宮妃達に音楽を 教え、76才でその生涯を閉じている。
 1937年・昭和12年には兄の幸田露伴と共に芸術院会員に選ばれたが、その後妹の安藤幸も選ばれて いるので、幸田家・芸術院会員三兄妹と言われている。


2:ユンケル(アウグスト)

 (1868・明治元年〜1944・昭和19年)ドイツ生まれ。

 この項は日本人のVn奏者のバイオグラフィーであるが、日本のVn黎明期に於いて著しく貢献した 忘れ得ない人物であり、この項で採り上げることにした。

 ユンケルは1868年ドイツ西部のアーヘンで生まれた。7才でVnを始め、13才でケルン音楽院に入学 する。在学中ブラームスがアーヘンを訪れた時、ブラームスの前でブラームスのVnソナタNo。1 (雨の歌)を演奏、ブラームスに激賞される。
 その後ベルリン音楽院で盟友ヨアヒムに師事した後、アメリカに渡りVn奏者として活躍した。
 1898年・明治31年に来日したが、当時東京音楽学校で教鞭を執っていた幸田延に請われて東京 音楽学校で教鞭を執る。その時の門下には、滝廉太郎、山田耕筰、三浦環、信時潔、軍艦マーチを 作曲した瀬戸口藤吉、安藤幸、らがいる。

 1906年・明治39年に蒲田能ふ、と結婚して一男二女を得るが、父親が倒れたた為、一旦ドイツに 帰国する。然し妻の能ふ、が半身不随になったのを期に日本での永住を決意し、日本に戻り、脳出血で 急死するまで武蔵野音楽学校や自宅で日本の音楽学生の指導を続けた。
 1944年・昭和19年75才で東京の百人町で息を引き取った。


3: 安藤幸

 (1876・明治9年12月6日〜1963・昭和38年4月)東京生まれ。

 幸田延の6才年下の妹として東京に生まれる。1889・明治22年〜1892年・明治25年に東京音楽 学校選科でディートリッヒにVnを学ぶ。その後予科、本科、研究科でアウグスト・ユンケルに師事した。

 1899・明治32年ベルリンに留学して、ヨアヒム及びヨアヒムの助手をしていたマルケースにも 師事して研鑽を積んで帰国し、1903・明治36年〜1932・昭和7年の間、東京音楽学校で教授を務めた。
 その後は講師として10年間(1942・昭和17年迄)音楽学校に在職したので、彼女の門下生は相当 数に上る。その主な人物には、兎束龍夫、井上武雄、鷲見三郎、渡邊暁雄らがいる。

 また1932・昭和7年にウイーンで開かれた第1回国際コンクールの審査員に、日本人としては初めて 選ばれている。昭和7年に発足した日本音楽コンクールの審査員は晩年の80才まで務めている。そして 1942・昭和17年には芸術院会員に選ばれている。
 1963・昭和38年87才の天寿を全うして、東京で没している。


4:辻吉之助

(1898・明治31年2月11日〜1985・昭和60年8月)京都生まれ。 

 辻吉之助は京都で生まれたVn奏者で、福井富之助、ボリス・ラスに師事、宝塚管弦楽団のコンサート マスターを経て自らVn教室を主宰して娘の辻久子をはじめとして、久保田良作、和波孝禧らを育てた。 彼の指導は極めて厳しく、特に娘の辻久子に対する教育はスパルタ的であり、その厳しさの噂をよく 聞いたものである。

 また筆者は辻久子の演奏会を度々聞いたが、演奏会には必ず客席のどこかにさり気なく、紛れ込んで 娘の演奏を聞くと共に、観客の反応や評判を聞くという徹底したものであった・・・筆者は辻吉之助氏 が客席で聞いているのを屡々見かけた事がある。
1957・昭和32年には紺綬褒章を受章している。


5:モギレフスキー(アレクサンダー)

 (1885・明治18年1月27日〜1953・昭和28年3月7日)ロシア生まれ、東京没。

 モギレフスキーも日本のVn演奏技術の向上に貢献した忘れ得ない人物である。
 ロシアのオデッサに生まれたモギレフスキーは6才の頃からVnを始め、ロストフの音楽学校で ヴィエニアウスキーの弟子であったサーリンにVnを学ぶが、同門にジンバリストがいたと言う。
 1898年からモスクワ音楽院でソコロフとグルジマリに学ぶ。ペテルブルグではレオポルド・アウアー にも学んでいる。

 モギレフスキーは独奏よりも寧ろ合奏を好み、1909年にはモギレフスキー弦楽四重奏団を立ち上げて いるが、革命後の大変動の為に駄目になった。
 1921年には新しいリーダーの許で有名なストラディヴァリウス弦楽四重奏団に入団している。  その後モギレフスキーはパリで活躍し、当時の作曲家から作品を献呈されている。

 またカペーにも師事して、カペー弦楽四重奏団の第2Vnをを弾いた。さらにバッハのドッペルコン チェルトをカペーと弾いている。このカペーはボーイングの神様と言われているが、その影響を受けて モギレフスキーは常に美しいボーイングで演奏をした。1920年から1年間モスクワ音楽院で勤めたが、 1926・昭和元年に来日、東京音楽学校、国立音楽学校で教鞭を執っている。

 日本ではモギさんと親しまれており、日本のVn芸術の発展の為に大きな貢献をしている。その代表的 な人物が諏訪根自子である。
 1953・昭和28年に亡くなり、東京の小平霊園に葬られた。


6:小野アンナ

 (1898・明治31年4月1日〜1979・昭和54年5月18日)ロシア生まれ。

 小野アンナはロシアで生まれたが、6才よりピアノを、10才よりVnを学ぶ。1908〜13年ペテルブルグ 音楽院にて、レオポルド・アウアー、ナヴァルジャンに師事して、「フリーアーティスト」の称号を 得た。1917・大正6年ロシアに留学中の小野俊二と結婚。その翌年に来日、早期教育の重要性を説き、 小野アンナ音楽教室を主宰し、日本のVn演奏の発展に大いに寄与した。

 1946・昭和21年より武蔵野音楽大学教授、桐朋学園でも教鞭をとった。門下には諏訪根自子、 諏訪晶子、巖本真理、中島田鶴子、前橋汀子、潮田益子、浦川宜也、嶋田英康、安芸晶子、久山恵子、 三木鶏郎など錚々たる名手がいる。
  晩年になってから、惜しまれながら祖国ロシアへ帰国して、1979年ロシアで没した(享年81才)。


7:鈴木鎮一

 (1898・明治31年10月17日〜1998・平成10年1月26日)名古屋生まれ。

 鈴木鎮一は明治31年、日本で初めてVnの製作に成功した鈴木政吉の三男として、名古屋に生まれる。 1916・大正5年(18才)名古屋市立商業学校を卒業後、1920・大正9年(22才)の時に徳川侯爵家に 寄宿して、Vnを安藤幸に師事する。 翌1921・大正10年には徳川侯爵の世界一周旅行に同行して ドイツに渡り前後2回8年に亘るドイツ留学が始まる。

 ドイツではホッホシューレでカール・クリングラーに学ぶ。また相対性理論で有名なアルベルト・ アインシュタイン博士の世話になり、博士の知的グループからも大きな影響をを受けた。  (筆者注:アインシュタインもVnがかなり弾けた。)

 1928・昭和3年にワルトラウト・プランゲと結婚。帰国後、兄弟による鈴木弦楽四重奏団(第1Vn 鎮一(三男)第2Vn喜久雄(六男)ビオラ章(四男)チェロ二三雄(五男))を結成している。
 また国立音楽学校で講師を務めるが、1931・昭和6年当時日本に滞在していたモギレフスキーと共に 帝国音楽学校を設立して教授に就任(後に校長)、1937・昭和12年頃江藤俊哉、豊田耕児らを自宅等 で指導をする。

 戦争たけなわとなった1943・昭和18年には木曽福島に移ったが、戦後1946・昭和21年に松本 音楽院を設立して、幼児からの才能教育を提唱し、所謂「鈴木メソード」を確立する。
 「鈴木メソード」とは「才能は生まれつき」と言う、それまでの考え方を否定、子供は育つ環境に よる事を実証した。また子供達に耳から充分に聞かせて理解出来るような環境を作って指導を進めると いうものであるが、この鈴木メソードは日本のみならず、世界30カ国で採用されている。
1980・昭和55年には文部省より「才能教育研究会」の認可が下りる。

 世界的に有名になった生徒には先の2名の他に小林武史、小林健次、鈴木秀 太郎、石川静、 浦川宜也等がいる。
 イギリスのサンデータイムス紙が特集した20世紀を創った1000人のうちの一人に選ばれている。 (因みに日本人は10名)


  受賞その他:松本名誉市民、イザイ賞、カナダ・ウイニペグ市名誉市民、
  アトランタ名誉市民、フランス教育功労賞、モンロー名誉市民、ドイツ
  連邦共和国勲章一等功労十字賞、ベネチア賞、中日文化賞、信毎文化賞、
  1973・昭和48年には勲三等瑞宝章を受賞している。またルイビル大学、
  ロチェスター大学、ニューイングランド大学からそれぞれ名誉博士号が
  贈られている。

8:鷲見三郎

 (1903・明治36年7月27日〜1984・昭和59年11月26日)米子生まれ、 東京没。

 鷲見三郎は米子に生まれ、1924・大正13年に上京し、Vnを多久寅に師事する。1925・大正14年 日本交響楽協会管弦楽団に入団。1926・大正15年新交響楽団(後に日本交響楽団と改称・現NHK 交響楽団)の第一Vn奏者となる。この間ヨーゼフ・ケーニヒ、シェフェルブラット、レオニード・ クロイッツァーに師事。

 1935・昭和10年頃より自由学園で指導。1945・昭和20年より日本音楽コンクール及び全日本学生 音楽コンクールの審査員を務めた。 1946・昭和21年〜1973・昭和48年にかけて国立音楽大学で指導。 1948・昭和23年桐朋学園付属「子供のための音楽教室」の創立に参加。1951・昭和26年に日本交響楽団 を退団して教育者としての道を歩む。
 この頃より門下生と共に「アンサンブル・フォンテーヌ」を組織して指揮者として、日本各地で 公演、レコーディングも行った。

 1952・昭和27年桐朋女子高等学校音楽科発足以来、同学園で指導。1955・昭和30年より相愛学園 音楽大学の講師も務めた。1959・昭和34年よりロン・ティボー国際コンクール、1960・昭和35年より パガニーニ国際コンクールの審査員をそれぞれ5回に亘って務めた。
 1961・昭和36年から桐朋学園大学の教授を務める。1966・昭和41年にはチャイコフスキー国際音楽 コンクールのオブザーバーとして招待を受けたほか、第一回カール・フレッシュ国際音楽コンクール からも招待を受けた。
 1978・昭和53年には勲四等旭日小綬章を受賞した。そして同年11月26日東京で永眠、米子市聖交会 墓地に葬られる。

 この様に鷲見三郎の功績は教育者としてのものが際だっており、日本の名伯楽と謳われている。
 彼の育てた名Vn奏者は数多く、国内・国際コンクール等で入賞したVn奏者は次の通りである。


  石井志津子、池田菊衛、石川静、稲吉亜美、植村由美子、潮田益子、
  漆原 啓子、漆原朝子、大津日出、大山平一郎、小栗まち絵、奥村安子、
    景山誠治 、久保田良作、黒沼ユリ子、栗山智子、小林久子、佐藤多美子、
    佐藤陽子、澤和樹、清水高師、鈴木秀太郎、鈴木裕子、鷲見四郎、
    鷲見健彰、千住真理子、宗倫匡、高橋満保子、高橋筆子、武内智子、
    武部洋子、辰巳明子、店村真積、堤久美子、手束勝彦、徳江比早子、
    徳永二男、永井由里、西千恵子、西沢和江、二宮美和子、二宮夕美、
    畑麻子、鳩山寛、原田幸一郎、広瀬悦子、深井碩章、藤原浜雄、
    古沢英子、振吉圭子、前田郁子、増門祥二、三川晋、水野郁子、
  室谷高広、山口裕子、和田啓子、和波孝禧 Etc。

9:鷲見四郎

 (1913・大正2年3月6日〜) 鳥取県生まれ。

 1913・大正2年に鷲見三郎の弟として鳥取県は米子市に生まれた。1928・昭和3年にニコライ・ シフェルブラットに師事。1929・昭和4年に新交響楽団に入団。1932・昭和7年、1933・昭和8年には 連続して、日本音楽コンクールVn部門第一位を獲得し、ソリストとしてもデビューした。

 終戦後NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた。そして1961・昭和36年〜1981・昭和56年には 国立音楽大学教授に就任している。


10:諏訪根自子

 (1920・大正9年1月23日〜)東京生れ。(現大賀根自子)

 3才より中島田鶴子、次いで小野アンナに師事。1930・昭和5年にはモギレフスキーに師事する。
 1932年・昭和7年東京で初のリサイタルを開く。時に12才であった。天才少女として騒がれていた 彼女は、1936・昭和11年に交換学生としてベルギーのブリュッセルに留学してエミール・ショーモン に師事する。その翌年にはパリに移ってカメンスキーに師事し、1939・昭和14年にはサル・ド・ ショパンでヨーロッパ初リサイタルを開き好評を博す。

 1942・昭和17年にはジャン・フルネ指揮ラムルー管弦楽団と協演したのをはじめ、クナッパーツ ブッシュ指揮ベルリンフィル、ウイーンフィルの独奏者として演奏するなど、ヨーロッパ各地で演奏を した。1945・昭和20年に帰国した彼女は、翌1946・昭和21年マンフレット・グルリット、井口基成、 井口秋子、田村宏、安川加寿子らと日本全国で共演している。
 1951・昭和26年には、アメリカに渡り、アメリカ各地で演奏会を催している。

 日本人としてこれだけ世界的に活躍したVn奏者は、諏訪根自子が始めてであり、名実ともに当時の 第一人者であった。
 恐らく昭和23年頃と記憶しているが、筆者(当時16〜17歳)は神戸の海員会館で開かれた彼女の リサイタルを聞きに行ったが、素晴らしい演奏に感動した記憶がある。もう50年以上も前のことで あるが、曲目の一つは、ヘンリー・エックレスのVnソナタであった事は覚えている。


平成15年3月15日  ***編集責任・錦生如雪***


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